32人目 清水公彦さん:サンクジャパン株式会社

会社名:サンクジャパン株式会社
URL:http://www.cinq-japan.com/
公開日:2010年06月04日


今回の旅は、サンクジャパン株式会社の清水公彦さんです!

今までの経緯も含めてお聞きしたいんですけど、
起業のきっかけは、どういったところから?

学校を卒業してからトス●ムという大手企業に入社したのが1996年。
6年ほど仕事をして、辞める前の1年。
たまたま埼玉から立川へ転勤して、
まったく知らない環境のところへ。
そこの上司がちょっと嫌な方でいじめにあったんですよね。

社会人になってからのいじめですか?
例えばどのような?

私だけ会議に出させてもらえない。
私だけ机にちょこんと残されて、メールで連絡事項が来る。
それも赴任して1カ月もしないかとうかで。
おしゃべりな性格なので、
すぐに仲間ができたのがあまりおもしろくなかったようで。。。
すごくやる気があって赴任していったのに、
ずっといじめられ続けて。。。
ちょうど嫁さんが6カ月でお腹に赤ちゃんがいた時だったので、
嫁さんも不安だったし、私も家に帰っても不安だし。
酔っぱらって和室の隅で泣いたこともあった。

ずっと続いていたんですか?

ずっとですよ。辞めるまでの1年くらい。
そんなことが続いていて、
これは大企業にいる限り、
良い上司もいれば、気の合わない上司も居る。避けては通れない。
であれば、中小企業の道もあるだろうと思い始めていました。
ある日、本社で会議をやっていたとき。
すごく鮮明に覚えていて、
とにかく会議自体に集中できなかったんです。
ドラえもんの絵を描いて時間を潰してみたりしても、
丸1日だから全然潰れなくてですね。
午前中、終わった頃には
「俺、ちょっとムリかな」
と思い始めて、食事を済ませて午後の会議が始まって、
もう居ても立ってもいられなくて、
会議が終わった瞬間に義理の親父に電話をして
「今からお邪魔していいですか?」
と。
義理の親父が建設の工事業をやっていたので、
もうその時には辞める気、満々で、雇ってもらう気満々。
嫁さんや親にも何も言わず。
そのまま走り込んでいちゃって。
「すみません、明日から雇ってください!」
と言って。
「わかった」
と言ってくれたので、
戻って辞表を書いて次の日に提出して、
2週間後くらいに退社しました。

すごっ!なんだかもう爆発したって感じですね。

自分の力とか思いだけじゃなくて、
そうしなきゃいけないような状況だったというかね。
それが2002年の5月、28歳の時ですね。
そこから中小企業の社歴のスタートですね。

ではまさに29歳の時は、
仕事をバリバリされていた頃?

そう。とにかく忙しくてね、
正直、29歳の頃の記憶がないんですよ。
またね、いろいろドラマがあってね。
取引先が倒産して、
義理の親父の会社にも影響があり、
5000万引っかかったんですよ。
瀕死の重傷だったのですが、義理の親父の強い意志で、
何とか続けようということを決めて。
だけど、物が買えないんですよ。
5000万も引っかかっちゃったから、
メーカーさんや問屋さんも
「あの会社は潰れるから」
って、物をなかなか売ってくれないんですよね。
職人さんは逃げていくし。
だから、職人さんに頭を下げて
「仕事をやってください」
と言ってました。
そしてとにかく大手からもらう薄利の仕事を
月に40件や50件の数をこなして。
午前中だけで電話が40件、50件かかってくるような
忙しい時期を過ごしていたのがまさに29歳の時ですね。
2年くらいは物を買えない状況だったので、
とにかく数をこなすことで
少しずつお金を貯めていくことに奔走していた時期。
狂ったように忙しかったよ。

朝から夜中まで仕事三昧だったんですか?

ザラですよ。
今でもそうなんですけどね。
朝6時から仕事をして夜中までというのは継続しているので。

29歳から30歳になる誕生日の思い出は?

何にも覚えていないですよ。
どこで何をしたかも記憶にないくらい。
さっきから一生懸命考えていたんですよ。
その頃の手帳なくて。。。
その頃、記憶にあるのは、
一人での能力は限界だったので、
営業して売って来てもらえるよう
ファンを作ろうと勉強会をいっぱい開催してました。
「これをやったら売上が上がりますよ。」
といったアドバイスを理解してもらうよう、
資料も作っていましたね。
当時の私は自分の主張が強すぎて、職人さんとは喧嘩ばかり。
ぶつかることが多くて。
「工事業は俺には合わないな」
と感じていた29歳ですね(笑)。
飲食とかに妙に魅力を感じたりして、
ワインのことを異常に勉強したりとか。
単純に逃避行動(笑)

そもそも、起業という選択肢は20代の頃からあったのですか?

ありましたね。
今は全く思ってはおりませんが、当時の私は、
「中小企業のサラリーマンほどつまらないものはない」
と思っていたんです。だったら、
「大企業のサラリーマンがいいじゃないか」
と思って大手企業に行ったんですから。
中小企業だとやはりトップに立たないと意味がない。
たまたま義理の親父には、男の子二人がいて。
いつまでも義理の息子の私が出しゃばって、
会社を継ぐのもどうかと思ったので、
義理の親父の会社に入った初日から独立することは意識していましたね。
ただ、建設業とは違う業界で独立したい意識が強かったですね。

経営者になるための勉強を何かされたりとかは?
経営者としてや、お金に対する考え方など。

まったく勉強していなかったですね。
ノータッチでした。
だから、経営のケの字も知らない感じです。
独立する時にはやらなくてはいけないので、
会社を辞めてから決算書を読める本を慌てて買いました。

なるほど。僕も経験があるんですが、
買って読んでみてもわからないじゃないですか。
実際にやってみないと。

そうなんですよね(笑)

会社を創る経緯。そして
「日本を元気にする」
という理念を作られた経緯を教えてもらえますか?

義理の親父の会社に入社してから4年後。
2006年12月29日。
仕事納めの最後の全体会議をやっている時、
社員の一人から、
「何故、朝から晩までこんなに忙しく働くのですか?」
「続けるとどこに向かうんですか?」
と聞かれて。答えがわからないまま悶々としていた。
年が明けて、新年の挨拶まわりの時、
取引先の会社の社長さんに
「答えを出せなくて困っているんです」
と話したら、
「みんなそれ悩むんだよ。あまり気にするな」
と言われたんです。ほとんどの社長さんが。
だけど、ある社長さんだけは違った。
「じゃあ、清水、辞めちまえば会社。
自分で会社を創ればその答えがすぐにわかるよ」
と言われたんです。
それからすぐに、ノートを広げて
自分ができることを全部書きだしてみた。
今までやっていた工事の延長のことしかできない。
いきなり、飲食業を始めても潰れるに決まっている。
できることを探して、
そのなかでより得意なことを商売に絞って始めたんです。
ただ、
「何のためにするか?」
の答えだけは見つかっていなかった。
ある日、東京ドームの山本寛斎さんのショーを見に行ったんです。
そこに長渕剛さんがバイクで入場してきて、主題歌を歌ったんです。
「太陽の船」
という5分くらいの歌を。
「イェーイ、イェーイ、ウォー、ウォー」
と叫びながら、走りながら、
汗をかきながら5分位の歌なのに30分歌い続けていたんです。
すると少しずつ、山本寛斎さんのファンが立ち上がっていく。
おじいさんおばあさんまでも。
長渕さんの応援をしているんです。
私は立てなかった。
ボロボロ泣いていた。
「すげぇ!こいつ完全に日本を元気にした!」
ファンでもない人達を一気に元気にした。
その時に決めたんですよね。
「日本を元気にする」ってね。

長渕さんの歌をきいて、会社の理念に繋げるというのは、
やはり常日頃、意識をされていたからだと思います。
素敵です!
ではここから1問1答で質問を。
憧れている人は?

大好きな人で言うと、須藤元気が好きですね。

好きな本は?

この本が好きですね。
世田谷にある「D&DEPARTMENT PROJECT TOKYO」という
リサイクルの家具屋のことが載ってる。
ロングライフデザインという、
ここの考え方とやっていることがすごく好きです。

20代で成功の分岐点となるような経験をあげるとしたら?

5000万引っかかったことですよね。
それといじめられたこと。
いじめられなければまだ大手企業にいたと思う。
彼と街ですれ違ったらたぶん、殴ると思うんですよ。
本当にいやだったので。
でも、その代わりに殴ったあとに
「ありがとうございました!」
「あなたがいたおかげで私はサンクジャパンを作れたんで」
と言うと思いますね。

ものすごく矛盾していますよね(笑)。
逆に失敗している経験は何か思いつきますか?

いっぱいあるけど、
命を取られるまで瀬戸際までの失敗はまだ経験したことがないです。

常に心がけている毎日の習慣はありますか?

人のことを元気にしようといつも意識していますね。
毎日必ずやることは、トイレ掃除!
うちの会社の人は、
社長がトイレ掃除をやるから、
みんなトイレ掃除をやりますね。

何をしていいのかわからない。
選択肢が多くて迷っている方もいると思います。
実際、僕もそうだったので。
そういった方へ向けてアドバイスとして言えることは?

見つからなくてもがいている方って、
世の中にいっぱいいると思うんですね。
僕らの同年代でもそうですし、
若い方なんか特にそうだと思います。私もそうだった。
今だから思うのは、
見つからないからダメなんだという発想だと何にも前に進まない。
だから、夢もなくて「何のために」もわからなければ、
目の前にあるものを周りが呆れるくらい一生懸命やってみよう!
と。そうすると勝手に役割が与えられて、
自分が何が得意なのかが、きっとわかってくるからと。
そのうち、勝手に誰かがそういうチャンスをくれて、
自分のやりがいが見つかってくるから。
だから、ガムシャラに相手が呆れるくらいに今できることを。
みんなが呆れるくらい便所掃除をしようとか、
みんなが呆れるくらい挨拶をしまくるとか。
そういう話を若い方たちにしてあげたいですね。

なるほど。
ガムシャラに相手が呆れるくらいにできることを。
出来ていない人が多いですし、自分自身にも突き刺さる言葉です。
でも、これが原点というか。
基本なんですよね。
すぐに楽な方向に流れて、ガムシャラにやらない。
これじゃ役割与えられないですし、与える側からしても嫌ですしね。
すごくいいアドバイスだと思います!
ではここで同行者からの質問ターイム!
経営理念を拝見すると、
「新しい」「地位向上」という言葉がちりばめられているんですけど、
新しい事が好き。と思ったきっかけってありますか?
新し物好き。と言っている方に限って、
ビジネスサイクルが保守的な方が多いように思っていたので。

僕、もの凄く保守派で(笑)
たぶん、僕、自分では何もできない。
ただ、周りに素敵な、心優しい、腕の良い職人がいっぱいいる、
彼らと付き合う為には、
彼らの仕事をとってこなきゃいけない。
多くの方と付き合う為には、
多くの事をチャレンジした方が、
多くの事と人と出逢えるんじゃないかな。

それが地位向上にも繋がると?

そうですね。
基本的に彼ら建設業の職人さん。
みんな給料が安いんですよ。
一生に一度の家を作っているのに。
一生に一度の家の壁を塗ってるのに。
帰る家は賃貸アパートかマンションが多いんですよ。
できれば自分で塗った壁の中で暮らしたい。
と思っているはずなのに。
でも年収が足らなくて、無理なんですよ。
そう思ったら、地位の向上をするしかない。
子供がなりたい職業のトップ10に建設業の職人さんが入るくらいに。
そのためのお手伝いをしたい。
腕がいいから、怖い顔して黙っててもいい。
というのは、昔の職人。
21世紀型の職人っていうのは、
お客様と笑顔で会話して、挨拶もできて。
高いコミニケーション能力を持ち合わせていないと
無理だと思うんですね。
勉強して、時代に対応をしていかなきゃいけない。
そして、彼らが持ち家を持てるように。
学校が嫌いで、学校を辞めて職人になりました。
って人も多くて。
最初から、夢や希望を持ってる人って実は少なくて。
だからヤンキーっぽいのって多いでしょ?
大学を出て、高校を出て、
俺は大工になりたいんだ!
って言われるような業界になれば、
多分地位向上はできると思うんですよね。
ただ、そんなこと、真面目に考えている人っていない。

地位向上っていう切り口で、
いわゆる左官とか全く知らない僕らが
地位向上に役に立てるとしたらどうすればいいですか?
応援したいと思っても、別次元故に。。
僕ら出来ることってなんなのかな?と思って。

なるほど。僕、それ抜けてます。
完全に一方通行の発想でした。

応援の仕方がわからない。

そうかー。確かに!
答えわからないですね。
これ、宿題にします。
僕は逆側からいっぱい考えていたんですよね。
職人さんに持ち家をもってもらいたい。
って気持ちがとにかくあったので。
逆側からも考えるっていうのは必要でしたね。
ありがとうございます。
ちょっと真剣に考えてみます。

~~~~~同行者からの質問ターイム終了!~~~~~

では最後に、29歳の自分に向けた
伝えたい言葉を
色紙に書いてもらえますでしょうか。

当時は本当に夢も希望も、何の為にも。
全くわからないまま、
ただ忙殺していただけだったので。
ただ、それをやったからこそ、
今の役割を認めてくれて、
応援してくれる人が増えてきてくれたので。
この言葉を贈りたいですね。


今日はどうもありがとうございました!