92人目 中山和義さん:中山産業株式会社

中山和義さん
会社名 中山産業株式会社
URL http://www.nakayama-gr.jp/
公開日 2011年08月29日

今回の旅は、中山産業株式会社の中山和義さんです!

まずは読者向けにお仕事のご紹介をお願いします。

テニス関係の仕事を主におこなっています。
テニスショップやテニススクールに
テニスの用品開発では練習機やテニスのガットが中心です。
ビジネス書を執筆したり、たまに講演の仕事もしています。
最近ではラジオのパーソナリティーの仕事も始めました。

テニスを中心としたビジネス展開をされていますが、
こういったお仕事をはじめられたきっかけを教えてもらえますでしょうか?

まず、大学卒業後、アメリカのテニスキャンプで働き始めました。
テニスを始めたのが中学1年生の頃からで、
テニスコーチのアルバイトは大学時代からしていました。

昔からテニスの仕事に就きたいと考えていましたか?

そんなことは全然考えていませんでした。
就職活動は本当に迷っていました。
経営工学科というSEを養成する学科を専攻していて、
当時はベーシック言語が主でその分野に行くのか、
父親のテニスクラブの会社に行くのかで迷っていました。
当時はバブルでしたから、
NECやIBM、三菱商事といった大企業のオファーがものすごかったんです。
システムエンジニアもちょうど売り出し始めた頃で
経営工学科もあまりない時代だったので、すごく迷いました。

パソコンもそんなに普及していませんよね。

個人でパソコンは持っていませんでした。
大学の研究室のパソコンを順番に使っていました。

結局、SEの道に行かなかった理由は?

僕が長男というのがあって、
父親には長男に任せたいという要望がありましたし、
僕自身テニスが好きだったという理由があります。
それに海外で働けるという話もあったんです。
海外のテニスキャンプで働くという話にはとても惹かれました。

海外ではどのようなことを?

メンフィスにあるテニスクラブで働く。
という話だったんです。
ただ、いきなりメンフィスに行っても使い物にならないので、
3か月間、フロリダのテニスキャンプで勉強するように。と言われたんです。
フロリダに行った後、メンフィスのテニスクラブへ行きました。
そこで最初は掃除をやらされました。
インドアサッカー場とインドアテニスコートが
5面くらいある大きいテニスクラブで
「君の仕事はまずは掃除だ」と言われ、
そこで1年くらい働きました。
その後フロリダの環境が気に入っていたので
もう一度フロリダに戻り、テニスの勉強をしていました。
「ハリー・ホップマン・アカデミー」というスクールで、
世界中からトッププロが来て、トップコーチが教えているんです。
トップコーチがどのように選手に教えているのか。
ジュニアの授業が行われているので、
それを聞かせてもらったりしていました。

仕事をしながら勉強されていたんですね

最初の頃は手伝っていました。
ゴルフ場の研修生のように働きながら練習するイメージです。
アメリカには1年半くらいいて、
帰国後は「ヨネックス」というテニスメーカーで働き始めました。

インタビューのテーマが「29歳」なんですが、
その頃はヨネックスで働いていたんですね。
29歳、どんな1年間でしたか?

5年くらい働いていましたので、仕事には慣れていた頃です。
契約選手や契約コーチのフォロー、テニス大会の運営が仕事の
販売促進部に所属していました。
29歳頃は仕事の要領を覚えてきて、
だんだん仕事に慣れてきて、無難にこなしている感じです。
どこかに「こんなのでいいのかな?」という気持ちがあるような時期でした。

30歳に対する不安はありましたか?

29歳は結婚する少し前で、
ちょうど30歳の時に結婚しました。
仕事よりも恋愛に一生懸命の頃です(笑)
ヨネックスはまだ上場していない会社で、
僕が入社してからちょうど二部上場を果たした頃。
そういう意味では、人も事業所もどんどん増えて、
売上も上がってくる会社でした。

いつかは起業する。という気持ちはなかったんですか?

独立起業するイメージはなかったです。
僕の場合は父親の仕事を継げばいいのかなという気持ちがありましたから。
ヨネックスの仕事もおもしろくなってきていましたし。
会社に入って5年くらいの時期が
仕事も一番おもしろい頃。
もう少し居てもいいかなという感じで、
ダラダラしていたのが29歳頃です。

30歳のお誕生日の思い出はありますか?

その当時の彼女と一緒に過ごしていたと思います。
ヨネックスではバリバリ仕事をやっていたわけではありませんが、
休みは年に3日か4日しか取っていませんでした。
というのも販売促進部は休みの取れない部署なんです。
土日に大会が多いので、土日に働くのは当たり前でしたし、
体育会系の会社だったので休みの届けを出しづらい雰囲気でした。
自分の誕生日は、確かインターハイの大会だったと思います。
夜まで時間がない。
それでも、どうしても会いたかったので、
山梨から浦安の彼女の家まで車を飛ばしていました。

すごく情熱的な誕生日の思い出ですね!
では、独立されるまでの経緯を教えてください。

その頃、人との出会いがあって、
人生について考えるヒントをもらったんです。
平林さんという不動屋さんの方で、
船井幸雄さんの話をされていました。
「財産や相続も考えなくてはいけないし、
事業のヒントにもなるから勉強しに来なよ」
と誘ってくれたんです。
それまで普通のサラリーマンで経営者の勉強会なんて興味はなかったんです。
でも、船井幸雄さんの講演を聞いた時に
「こういうおもしろいことを言う人がいるんだな」という驚きがありました。

ちなみにどんなお話になるんですか?

その頃は
「素直・プラス発想・勉強好き」が事業を成功させるのに絶対に必要なこと。
と話していました。

それから経営の勉強を始めたんですか?

セミナー好きになり、ヨネックスに勤めながら通っていました。
もう会社には申し訳ないくらい
時間が空いていれば必ず行っていました。
本当は夜中まで仕事をしなくてはいけないんですけど、
コーチの人との夜のお付き合いを断って行っていました。

自分の中で変化はありましたか?

人生の目的を落とし込んでいくようになりました。
「7つの習慣」とか「人を動かす」、ナポレオン・ヒルのセミナーを受けると、
本当にやりたいことをやらなくてはいけないという
モチベーションに変化していきました。
それまではヨネックスの商品を売ることを中心に回っていたのに、
「どうやればテニスって儲かるんだろう?」という視点で考えるようになりました。
おかげで視野が広がるようになりました。

経営者になってからいろんな苦労があったと思いますが?

やっぱり、最初は父親のやっている会社に入るのが大変でした。
事業継承ですから、きれい事ではいかない。
会員制のテニスクラブでやっていた父親と
僕がやりたいテニススクールのスタイルは丸っきり違っていましたし。
父親のテニスクラブは外の12面コートに
月額の使用料をもらって会員の方を入れる。
僕がやりたかったのは、
テニススクールを中心とする事業です。
12面も使っていたら固定資産税だけでも大変。
そんなのムリだから余った敷地には違うビジネスをやるという考えでした。

違うビジネスとは?

テニススクールだけでは続けるのが難しので、
メーカーや物販など多角的にやらなくてはダメだと思っていました。

なかなか理解されなかったのでは?

まぁ、ムリでした。

そこをどう乗り越えたんですか?

結果的には自分の会社を創ることになりました。
僕の場合、どちらかに決めないで
両方を走らせる戦略を必ず取るんです。
いいか悪いかは人によって判断が変わりますけど。
父親の仕事を一生懸命やりながら、
自分でも起業して並行させる。という戦略です。

どちらかが潰れてもいいように?

そういうわけではないです。
経営者同士が対立していてもいいことなんて何もないんです。
社員のモチベーションも下がってきますから。
父親の会社にいる時間はその仕事をがんばって、
対立部分は僕の会社でやればお互いにハッピー。という考えです。
どちらの事業も伸ばせば何も問題がないんです。
ただ、ものすごく大変でした。

事業の業績が下がると問題ですよね。
現状ではテニススクールの運営やテニス用品の開発、物販をされていますが、
今後の新しい展開は何か考えているんですか?

実は新しいスクールを作るために土地と建物を探しています。
武蔵境や国分寺の郊外を考えています。
都心は土地の関係でムリ。
値段が下がっている今がチャンスなんです。

リスクをいろいろと考えてしまいませんか?

それは考えていません。
今や新しいモデルは絶対に成功する自信があります!
テニススクールなんだけど、今の形態とはちょっと違うものです。

今後の夢や目標を教えてもらえますでしょうか。

基本的にはテニスの事業をすべて抑えたいです。
日本で一番のテニススクールになるのは、
「メガロス」や「コナミ」がいるので厳しい。
テニスショップも「アートスポーツ」がいるからムリです。
メーカーではヨネックスがいる。
全分野で一番になるのは難しいけど、
スクール、物販、メーカーの分野を抑えている事業者の一番はまだいないんです。

壮大な夢になりますね!

とりあえず、全部抑えています。
「ウイニングショット」というメーカーを立ち上げて、
製造する工場も抑えています。
ショップも3か所あるし、ネット通販も会員で4万人くらい抑えています。
後はこれを広げて高くしていけばいいだけです。

そこまで辿りつくのはすごいです。

なかなか全事業に手を広げることはできないと思います。
やはり、苦労するポイントはいくつかあります。
ポイントというのは産業が変わる時です。
スタートはテニススクールです。
これはサービス業。
テニスショップは小売業。
そこで産業が変わるんです。
在庫管理や仕入れ管理など新たなノウハウが必要になります。
それを経験しながら学んでいきます。
そして、自社製品を作る製造業でまた産業が変わる。
OEMで海外の工場に製品を作ってもらうノウハウがいる。
その度に授業料を払っています(笑)

毎回毎回やりながらですか?

事業で成功して、稼いだお金を投入する感じです。
もちろん、失敗もあります。
学習塾も失敗しましたし、スポーツも全般ならOKかと思って、
ゴルフショップもやったことがありますが、それもダメでした。
ゴルフショップの失敗は、敵が巨大すぎたことです。
ゴルフ産業はテニスの比じゃないんです。
中小企業が手を出していいレベルではない。
「二木ゴルフ」やゴルフスクールで先行している事業者もたくさんいましたので、
とても太刀打ちなんてできませんでした。

テニス業界には先行している事業者はいないんですか?

テニスはうちが先行しています。
僕自身がテニス業界にいたので人脈があるから。
それがまったくないゴルフ業界で勝負するには力不足です。
過去の延長線がまったくないもので儲かりそうだと思ってもダメです。
過去の生き方に自分のやるべきことや成功できるヒントがあるんだと思います。

経営者として意識されていることは、
ご自身の中で何かありますか?

しゃしゃり出ないことです。
昔は自分で決めていましたけど、
今はスタッフのやりたいことを極力やらせてあげるようにしています。
もちろん、失敗もあるしお金が出ていくこともあります。

そこはあえて経験させる。ということですね。

「彼が言っていることも合っているかな」
という考えを持つようにしています。
成功の可能性が1割なら、いくらなんでも止めますが、
でも、3割なら判断が難しい。

僕は止めそうですね。

3割の可能性ならたまにうまくいく時もあります。
3回に1回は成功する確率があるから。

しゃしゃり出ないようにしようと思ったきっかけは?

しゃしゃり出ているといつまでたっても自分が大変なんです。
事業がこれだけ横に広がると、
メーカー部門、ショップ部門、スクール部門にすべて均等に力を注げないんです。
今はこの部門を伸ばさないと思ったら、そこに力を入れざるを得ないんです。
他の部門はスタッフに祈るしかない。
だから、成功の確率の高いスタッフを見つけて、その人に託すようにしています。
それでもダメな時はどこかから連れてこなくてはいけませんが、
あまりうまくいくケースはありません。
今までの経験からいうと、
入社して2年経ったスタッフをリーダーに抜擢するとうまくいきます。
これも最近気をつけていることですが、
優秀な人材を違う分野から連れてくる。ということです。

例えば、どんな分野からですか?

今の通販の責任者は、ずっとCDを通販で売っていた人です。
テニスは何も知らないんです。
むしろテニスのことは知らなくてもいいんです。
通販のノウハウさえあれば、テニスは始めたら覚えるし、
始めたばかりは絶対に楽しくていろんなことに気づきますから。

雇う側としてはテニスをやっていた人って思いませんか?

テニスをやっていた人はダメです。
テニスはこういうものだという固定観念がありすぎますから。
「こういう業界でこうやって物が売れていたんですよ」というノウハウを
持って来られる人がいいです。
テニス業界ではテニスの商売のハウツーが確立されていないですから。
つまり、色々な人材が居たほうがいいということです。
テニスが好きなのは重要ですが、
テニスをやってきた人ばかり集まるのも弊害が出てきます。
初心者の気持ちがわからないですから。
一番商品を買ってくれるのは初心者なので。

違う分野からどうやって人を引っ張ってくるんですか?

人伝てです。
履歴書を持ってくるわけではないです。
リーダーを探しているわけですから
履歴書を持ってくる人からは見つからないです。
働いている人を引っ張ってきます。

「20代のうちにこんなことをやっておいたほうがいい」というアドバイスがありましたら、
ぜひメッセージをお願いします。

会社に言われたことだけをやっていたらダメです。
サラリーマンをやっている人たちは、
とにかく企画書を出しまくることです。
いい企画書なんてそんなに書けないですから、だから数で勝負する。
少なくとも「すごい数の企画を考えてくる奴」というブランドは取れます。
何でもいいのでとにかく必死に働くことを一度やるべきです。
やりたい仕事って絶対に就けます。
絶対に。100%就けます。
「お金がいらないので働かせてください!」
と言ったら、採用される可能性は高いですし。
それしかないんです。
フリーターで能力がなくてやりたい業界に
お金をもらって就職しようとしてもうまくいかないなら、
お金はいりませんって話す。
それを面接で言えたら強いです。

それを言える人はそういないでしょうね。

昔はそれが当たり前だったんです。
とにかく教えてくださいという世界でしたから。
落語でも相撲でも、まずはやらせてくれ!って。
「僕に実力があったらお金を払ってくれ!」という世界。
今は法律で雇用契約がありますが、
「僕はどのくらいできるかわからないですけど、これ位ください」
ということを最初の面接で契約するわけですが、
「これ位ください」の根拠を積み上げていた人ならいいですが、
フリーターとか実績のない人はムリです。
それなら新卒を取ろうという話になります。
何が人生に幸いするかわからない。
例えば、自転車で日本一周してきて、
「どうしても自転車関係で就職したいんです。
日本を一周してきた1年間の記録です。ぜひ見てください」
と言って、日本一周で乗っていた自転車がその会社の自転車なら、
それはもう採用します。
「この写真使っていいの?」という話。
「この資料をもらうためにあなたを雇います」
と、なるかもしれないですし。
起業するのも実は一緒なんです。
それくらいバカにならないとうまくいかないです。

では最後に、
29歳当時のご自身に向けたメッセージを色紙にお願いできますでしょうか。

これは一度やられたらいいと思うものがあります。
人生がうまくいっていない時にそこから抜け出す方法があります。
自分の人生でうまくいった時とうまくいっていない時を
破線グラフにする。
縦軸は上がプラス100で下はマイナス100、中心が0。
横軸は年齢を取っていきます。
天井の時にしていた事と底の時にしていた事を書いていく。
そうすると共通点が見えてきます。
いい頂点の時に自分は何をやっていたかが共通しているはずです。
僕の頂点の場合は、目標がすごくある時。
逆に底の時はあれこれ悩んでいる時なんです。
あとは転換点で何が起きているかを見ます。
天井から底に落ち始めた転換点があるはずです。
その転換点が重要。
是非みなさんもやってみてください。

本日はありがとうございました!


ママチャリで日本一周している経営者
■Profile:(2018年時点)
2007年から毎年分割でママチャリで日本一周を目指すこと11年目。ほぼ一周を終えつつ、まだまだ走り続ける口実をつくるべく、寄り道企画(四国八十八ヶ所編)を2017年から開始。人に「場を与え、繋げ、拡げる」を基本軸に、法人複数社の経営と一般社団法人1団体の理事として活動中。
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