103人目 野澤孝彦さん:株式会社WERKESS
会社名:株式会社WERKESS
URL:http://www.neues.jp/
公開日:2012年12月13日
103人目の「社長の29歳を振り返る旅」は、
株式会社WERKESSの野澤孝彦さんです!
まずは自己紹介からお願いします。
ドイツパンとウィーン菓子の専門店「ノイエス」というお店を運営しています。
横浜でお店を構えていたのですが、
2011年11月に赤坂7丁目のドイツ文化会館1階に本店を移転しました。
高校生の頃からウィーン菓子の方向でやりたいという気持ちがありました。
当時、ウィーンのお店に手紙を書いて出したりと、
積極的にアクションを起こしてはいましたが、
もう少し日本で勉強をした方がいいのではないか。
という返答があったものですから、
日本のウィーン菓子を扱っている会社を探し、
高校を卒業してからは、日本橋三越の子会社に入社しました。
ただ、どうしてもウィーンに行きたかったので、入社時に、
3年勤めたら、三越が運営しているウィーンの
カフェモーツアルトというお店に行かせてもらう。
という約束を取り付けて入社したんです。
今から考えれば、18歳のくせに随分生意気なことを言っていました。
そして3年勤め、約束の入社3年目になった時。
なんと三越がウィーンから撤退し約束が流れてしまったんです。
そこで、約束した文章を社長のところまで持って行きました。
本来であれば入社している三越の子会社の社長のところに持って行くのでしょうけど、
直接、三越の社長のところに話をつけに行きました。
そこで社長に「どうすればいいんだ?」と言われたので、
すぐにウィーンに行きたいので、
自分が働きたいと思っているお店に、
三越の社長として紹介状を書いてくれ!
と、紹介状を書いてもらい、
自分で書いたドイツ語の手紙と三越の社長の手紙を、
ウィーンのお店に添付して送り、OKをもらいました。
よし!これで働けるぞ!
と、ウィーンに渡ったところ、
今度はOKしてくれたウィーンのお店の支配人がクビになっており、
前の支配人の約束だからそれは守れない。ということで、
結局、働くことが出来ないまま一週間で日本に帰ってきてしまいました。
振り回されまくりですね。。
その後はどうされたのですか?
その後、修行をし直し、2年後にまたウィーンに渡りました。
今度は違うお店で、約束を破られることなくです。
それが22歳の頃。
ウィーンで2年間と、ドイツで2年間。計4年間仕事をし、
26歳のときに日本に戻ってきました。
日本に戻ってきてから、世田谷のお店の立ち上げシェフとして迎い入れてもらい、
店舗物件探しや、人材集めなど、お店を持つ。
という経験を色々とさせてもらいました。
ただ、社長とは上手くいかなくて、1年で世田谷のお店を辞め、
27歳のときに自分でお店を持つということになりました。
もう一度、ヨーロッパに渡る。という選択はなかったのでしょうか?
そのチャンスもありましたが、
退職と同時に結婚をして子供も授かったので、
簡単にヨーロッパに渡れる環境ではなかったんです。
それに、自分で一からお店をやる。という経験もしてみたかったんです。
銀行からもお金を借り入れ、親からも借り、たっぷり借金を背負うことで、
自分に使命感を与える。
ということにも繋がりますし、チャレンジしました。
もし、2,3年やってダメだったら、
そのときはお店を辞めてヨーロッパにまた渡ろう。
という気持ちも持ってはいたのですが、
思いのほか上手くいってしまったんです。
では、今回のインタビューのテーマでもある「29歳」という年齢の時は、
まさにご自身でお店を持たれていた頃ですね。
そうですね。お店をもって2年経った頃ですね。
手ごたえを感じてきた頃です。
ただ、手元にわんさか現金があったわけじゃないですし、
なんとかやっていける。といったレベルなんですけどね。
やり続ければなんとかなる。
と、自信がつきはじめたのが29歳の頃。
その時にはその時なりの苦労もあったはずですけど、
現在となってはほとんど覚えていないです。
あっという間でしたね。
29歳というのは30歳になる微妙な年齢だとは思うんだけど、
まだ世間的にみると若造なんですよね。
しかもお店を持っているという人達の中でみると、
本当に若造で、業者の人達もそれなりに対応はしてくれるけど、
どこか目をみれば、バカにしているというか。。。
営業マンとかも全員年上ですから言葉は丁寧なんだけれども、
明らかに態度でわかるわけです。
そういった意味では、
29歳だから。30歳手前だから。
ということでバカにされるくらいなら
早く年齢を克服したい!
という気持ちはありましたね。
年齢を克服したいということですが、
そう思わせるきっかけや具体的な出来事が何かあったのでしょうか?
自前のお金でお店を出すという人達は、
ある程度、一線で活躍して独立する人間ですから、
自分みたいな20代で自分のお金でお店を出すような人間は洋菓子業界の中でも
なんなんだ。あいつは?
ってなるわけです。
専門学校もいっておらず、
お菓子の世界に繋がりが全く無い人間でしたので、
友達もいないですし、変わり者扱い。
借金を負ってお店を始めているわけですから、
本当に必死で一生懸命だったので、当時は、
「殺気立っている人間」
というイメージがあったようです。
ただ先ほど、29歳は開店2年目で手ごたえを感じ、
売り上げも伸びてきていた頃ということでしたので、
気持ちに余裕があってもいいのかな。
とは思いますがどうしてそこまで必死だったのでしょうか?
ある程度数字も伸びてきて、デパートのイベント出展の話も来て、
雑誌の依頼も来たりしていたので、
全てをこなさなきゃ。という気持ちと、
周りの人間からはやく認められたい!
という焦りの気持ちがあって、
ピリピリしていたんだと思います。
当時は朝の5時に厨房に入って、帰るのが日付の変わった午前2時頃。
少し仮眠をしてまた朝5時に厨房に入る。
というような生活でしたから。
でも辛くはなかった。
目に見えて結果の数字はついてくるし、
数字がついてくると周りの態度も変わってきましたから。
ただ周りの態度が変わることで、
だんだんと調子に乗って、天狗になっていき、
周りの言うことを聞かなくなっていき、
親切なアドバイスを全部無視していました。
特に、サラリーマンの方から言われるのが一番頭にきていた。
自分のお金で借金もしないで、
勝負もしていない人間から言われたくない!
って思っていましたから。
お前も会社を辞めて、借金背負って勝負してみろよ!
って、なるわけです。
本当に生意気でしたね。
その生意気さが柔軟になったきっかけは?
年齢を重ねると共に、少しずつ社会を知って、
そのときの状態に合わせて、自然と順応していったのかな。
メーカーさんとのやり取りなどで少しずつ社会性を覚え、
丸くなってきたというのは、自分でも感じていた。
周りからも丸くなったと言われるようになってきましたしね。
ただ社会性は覚えてきてはいたけれども、雑誌とか、マスコミに対しては、
この載り方は気に入らない。この文章が気に入らない。
表紙になるんだったらいい。
絶対にこの雑誌には出ない。
といった強気の態度はとり続けていました。
テレビのバラエティ番組系の依頼も多くて、
某情報番組で芸能人がオススメで紹介する番組とかも、
この人、お店に来て無いじゃん!
この人、うちの商品知らないじゃん!絶対に嫌!
って、断っているうちに、しばらくマスコミや雑誌に全く相手にされなくなりました。
それが実は売上にものすごく響いてきて、、、、
結局、声がかかるのはNHKだけになってしまいました。
ただ、NHKってお店の名前はでなくて、個人名しか出ないんです。
なので、仕事の依頼もお店としてではなく、
野澤っていう名前でお話がくるようになってきました。
今となってはそれはプラスなんですけど、
当時は、直接的なお店の売上にはならないし、
個人名ばかりが際立っていたので、バランスを欠いていましたね。
よくまぁ、周りが付き合ってくれたよな。って思います。
業者にしたって、家族にしたって、従業員にしたって。
お店を持って5年目が一番売上がよくて、現金もかなり手元にあった。
ただ、テレビや雑誌に出なくなった影響が露骨に出たのが6年目くらい。
さらに駐車禁止の法律が厳しくなって、お店の前に車が置けなくなったうえに、
お店の2件隣に交番が出来てしまい、売上は一気に下がってきてしまった。
まぁそんなこともあるだろう。
下がればまたあがるだろう。
なんて思っていたけど、一旦下がってからはずっと横ばい。
これはもうだめだな。ここから離れよう。
と決めたのが、2010年。
そして2011年に、赤坂7丁目ドイツ文化会館内に移転してきたんです。
移転をする際、悩んだりは無かったのでしょうか?
無いですね。
無理無理!同じところで変な努力をしてお金をつぎ込むよりかは、
次にうつっちゃったほうがいい!
というサッパリした感じ。
クヨクヨしないし悩まない。
売上が下がったのなら、身を削ることを楽しもう!って思っていましたから。
本当に、3年前なんてお金がなかったんですよ。
ただ、家賃や業者への支払いが出来ないときには、
支払先に色々と相談をさせてもらい、解決策を一緒に考えていき、
資金ショートしてもなんとかやりくりはできる。
意外となんとかなるもの。何とかできる。
ということがわかりましたね。
ただ、それを楽しんでいるのは自分だけ。
家族にしてみると、すごく頭を抱えているんですよね。
僕にはそこが理解できないというか、、、
資金ショートしているのにお店をやっていけてるのってすごいと思わない?
うちまわってるんだよ。すごいと思わない?
しかもちゃんとご飯食べてるし、車も持ってるし、
ローンも払ってるし、凄いとおもわない?
って僕は思うんだけど、周りは誰も楽しんでいない。
修行中もそうだったんだけど、厳しい環境にいても、僕は
「楽しむ何か」
を得ることが出来るんだと思います。
では、今、就職ができない。
やりたいことが見つからない。
何をやったらいいのかわからない。と、引きこもったり、
動けないでいる人たちに向けて、
「楽しむ何か」を得る為のアドバイスは何かありますでしょうか?
旅行でもいいから、まず海外に行ってみることだね。
ちょうど、つい最近まで僕の幼馴染がそういうので苦しんでいたんです。
18歳から3年間引きこもっていて、
ようやく置き薬の営業マンになったんだけども、
1年しか持たなかった。
それで22歳から40歳まで、18年間、ずっとヒキコモリ。
だけど、暗いヒキコモリじゃなくて明るい奴なの。
「俺、引きこもってるんだよね~」
「何もする気ないし、家の手伝いをして主婦みたいな感じ~」
「何かをするくらいなら死んだほうがマシ」
なんて言うわけ。
「なに?じゃあ死にたいの?」
って聞いたら、
「うん。この環境を変えるんだったら死んだほうがいい」
って言うものだから、2011年の正月に言ったんです。
「どうせ死ぬんだったら、海外にいったら?アフリカとか。
自炊的なことを、そこですればいいじゃん。
ピースボートに乗るなどしていけばいいじゃん」
って。そしたら本当にアフリカにいっちゃったの。そいつ。
そしてアフリカから戻ってきたら、
いやー面白かった!
アフリカで一緒に穴を掘って、炭をおこして、パンを作って。
言葉が通じなくても、何かやっているな。
って思ったら、とにかくそこに行って、近づいて、見よう見マネで一緒にやってみる。
すると、すぐに受け入れられて、夜になれば火を囲って一緒に踊って。
周りの日本人は、ITがどうのこうのって言っているんだけど、
ITって全然意味が無くてさぁ。
彼らはパソコンを持って無いし、文字も読めないし、書けない。
よっぽど自分が、日々、引きこもっている中で、
掃除、洗濯をしていたことの方が有効だったよ!
なんて言って、すごく楽しんで、自信を持って、帰ってきたわけ。
ダテに18年間、引きこもっていたわけじゃない!
溜まっているものがあるんだよね。
とまで言っちゃってさ。
そこまで自信満々に言われると18年間のヒキコモリが、
修行のごとく、カッコよく思えますね。
それから、そいつは海外を転々とするようになって、
大きく変化しちゃったんだよね。
だから、身の回りに自分を支えるものが何も無い環境に身を置いて、動くしかない。
何かしなきゃならない。というのは、凄くいいと思うんだよね。
日本ほど便利な生活ができる国ってない。
日本は便利過ぎるんじゃないかな。
海外に行けば、便利すぎるのが、逆に不愉快に感じれるかもしれないですから。
何をしたらいいのかわからない。
何も見つからない。
という状況であれば、どこだっていいと思うので、
海外に行ってしまうこともいいんじゃないかな。
では、今後の夢や目標を教えてもらえますでしょうか。
本心を言えば、ウィーンで生活をしたい。
だけど、簡単には住めないし、職人として住むとそれで終わってしまう。
それではなんだか嫌なんです。
拠点として、自分が行きたい時に行って、また日本に帰ってきて、という住み方にしたいんですよね。
もともと落ち着きが無いというか、どっぷり浸かってしまう住み方はあまり好きじゃない。
常に色んな事をやっていないと気がすまないんです。
お店のノイエスという名前も、ドイツ語で “新しい”という意味らしいですから。
1年、1年、毎年新しいことをやって、毎年違う経験ができていればいい。
好奇心が多いんでしょうね。
そこに至る過程で、自分にとってはお菓子をうまく利用しているという話であって、手段はなんでもいいんですよ。
正直言って。それがITなのかお菓子なのか。というだけ。
もともとピアノをやっていたのですが、15歳で断念したんです。
ただピアノをやっていたおかげで、ヨーロッパに関連する本を沢山読み、その中で、ウィーンというのがお菓子の町ということで、最初、強く惹かれたんです。
そこが原点です。
実際に2年間、ウィーンに住んで、自分の思ったとおりの町だったし、日本に帰ってきてからも、
やっぱりウィーンに戻りたいな。
って思えた。
じゃあウィーンに支店を持てばいい!
という発想で、拠点として、ウィーンに支店を持ち、ウィーンで生活をしたい。と考えるようになりました。
出来ちゃう気がするんですよね。なんとなく。
だからといって、結果的にお金持ちになっていることは無いな。とは思いますね。
すぐにお店のお金につかっちゃうし。
お金を蓄えて、ものすごい豪邸に住もうという野心があるのなら、この職業はやっていないですから。
~同行サポーターからの質問タイム~
就職活動が上手くいかなくて、大学側の措置で、
短期留年という形で授業を受けながら、
見栄えのいい学生という履歴書、経歴のまま、ついこの前の9月まで大学生でした。
就職が出来ず焦っている人がいる一方で、
学生をしながら気長に探せれればいいかな。
と焦りの無かった私のような人に対してはどのように思いますか?
恵まれた環境はフルに使った方がいいよ。
やっぱり、持っているものはフルに使わないと。
お金をもっているときにはお金をバンバンつかって、
人脈があるときは人脈をバンバンつかって。
時間があるときには時間を。
あるものを最大限に利用しないのはやっぱりもったいないよね。
私は自分に自信がないのですが、
野澤さんは昔からよっぽど努力や経験を積んで、
自信を持っていたのでしょうか?
もしくは自信に繋がるのに役にたった事などは何かありましたでしょうか?
昔からとにかく本を読んでいる。
それはすごく役にたっているかな。
未だに一週間に2冊くらいのペースで読んでいます。
本って、人の腐った知識なんだよね。
その人が考えた事とか思った事。
小説であってもサスペンスであっても、なんでも。
その人の知識の塊なんだけど、
本になった段階で過去のものだから、腐ってる。
新品じゃないんです。
だけど、その過去の知識を得ることで、自分は疑似体験ができる。
人って一つの時間しか過ごせれない。
他人の時間は過ごせない。
だけど、本や文章を読むことで知識として自分の中に入れて、
人の疑似体験をあたかも自分でやったかのように覚えていくことができるわけ。
そうすることで、古い知識が自分にとっては新しい知識になっていく。
過去のことをどんどん吸収するなかで新しい知識にしてあげると、
見えない自分の裏づけになっている気がする。
それは高校生くらいの頃から信じているかな。
学生のときはあんまり真面目なガキじゃなかったけれども、
周りの人間が、どこかあの男はちょっと違うな。
って扱ってくれたのは、昔からやたら本を読んでいたからだと思う。
言葉を知っている。
文章を知っている。
っていうのは結構強いんじゃないかな。
ありがとうございました!
~同行サポーターからの質問タイム 終了!!~
では、29歳 当時の自分に向けたメッセージを色紙に書いていただけますでしょうか。
今日はどうもありがとうございました!