13人目 川上 健太郎さん:THE面白本舗株式会社

会社名:THE面白本舗株式会社
URL:http://blog.livedoor.jp/omoshirohonpo001/
公開日:2010年02月18日


今回の旅はTHE面白本舗株式会社の川上 健太郎さんです!

29歳のときは何をしていましたか?

29歳のときは、ビデオレンタル店の店長をやっていました。大体25坪から40坪ぐらいの割と小さなビデオ店を四店舗経営している会社のナンバー2。
肩書きとしては専務取締役でした。
会社に入ったのはそこがはじめてだったので、マネージメント、4店舗のアルバイトの人材育成、仕入れ、イベント企画とか、見よう見真似でした
26歳までずっとフリーターというか、バンドをやっていたから。

20代最後の日は?

ビデオレンタル店の店番をしてたよ。
でも29から30の変わる瞬間は、自分にとっては凄く意味のあるものだと思ってた。
というのも、25歳くらいの時に何をやっても上手くいかなかったことがあったのね。
それまでは結構いい調子で出来たなっていう風に思ってたんだけど、彼女が鬱になったり、酔っ払った状態でバイクにのって交番の前で大怪我をしたとか。

今やったら大問題ですよ!当時も。でしょうけど。

なんか、むしゃくしゃしてたんだろうね、自分はこんなもんじゃない!みたいな。
アマチュアのバンドで、メジャーになれるわけでもなく。
日々パチンコにあけくれている俺ってどうよ?
みたいな。
情熱の向かわせ方がわからなかった。くすぶってたんだよね。
それが原因でもあるんだけど、色んな事が上手くいかなくて、もう20代はいいやって、25歳のときに諦めた。
ただ、何があっても自殺はしないって決めて。
とにかく真っ暗でも生き抜くっていうことをルールにして、とにかく30歳になったらそれが一段楽するから。
と、意味もなくそう決めておいて、30歳になったら晴れる。
どれだけ雨がふろうが暗闇が続こうが、歩き続けよう。と。
勝手に決めたんだよね、ルールを。
だから、これから何が起こるんだろうって思って、すっげーわくわくしていた。
早く30歳になりたかった

根拠ないのに?

30歳になれば、全てが変わる。みたいなさ!
すごい甘ったれているんだけどね。実際そんなことなかった。
ただ、気持ち的にはすごく楽になったし、無駄な自意識とか勘違いとか、自分が中心で世の中がまわっているっていう自我がボロボロって30代になったら取れたから、そういう意味では楽になった
自意識の塊だったからね。
10代20代の頃は、全員俺のこと見てると思ってたもん。

25歳のときに自殺をしないってルールを決めたと言われましたが、そこまで追い込まれてたんですか?

人間関係で、苦しんだんだよね。凄く。
バンドで俺はナンバー2の位置で、リーダーの人と高校の時からずっとやってきてて、仲が良かった。でも、そのリーダー。人間的に破綻してるんだよね。
ライブ直前に居なくなるとか、何か気に入らないことがあるとキレて帰っちゃうとか。
天才肌だったんだ。感情がコントロールできない人。
だから他の人が入ってきてもすぐ辞めちゃうんですよ。
俺は割り切っていたんだけどね。人格が破綻しててもこれはこれだろって。
ステージで輝いていれば、殺人者でもいいじゃん!みたいなところがあった。
だけど、世の中は通用しないんだよね。
だから自分は中間管理職みたいな位置になるわけ。いつも。
性格破綻者のリーダーと一般的な常識を持つ他のメンバーとの確執をいつも調整してた。
ある時、18歳から付き合ってた彼女がバンドメンバーになることになったんだけどリーダーとのやりとりが激しかった。
どっちの愚痴も聞くのは俺。
で、ある日、この子が鬱になっちゃうんだ。
自分では彼女の事をどうすることもできないって、ずっと悩んでたんだ。
ある日、「他人は変えられない」ってセミナーで聞いた時にもっと早くに聞いていれば楽だったなって思ったよ。
大げさだけど、自分が死ぬことでこの二人が仲良くなるんだったら、死を選んじゃおう。みたいな、感じだった、追い詰められてた。

なぜバンドを?

社会人になりたくなかった。
家から駅に向かうサラリーマンの流れが見えるんだけど、面白くなさそうだった
みんなブルーな顔してる。なんでこんなに仕事に行く人達はつまらなさそうなんだろうって。
家は自営業で、材木屋さんだった。
大工さんとかに囲まれていた。大工さんって元気。
なのになんでこんなにサラリーマンって元気じゃないんだろう?って思って。
だからこういう人にはならないようにしようって思って、違う選択肢を探そうって思った時に音楽が好きだったのと、雑誌の表紙に載ってたバンドの写真をみてカッコ良さそうと思った。
音楽が生き方の1つとして選択できるんだってわかったときにバンドでプロを目指そうと。
結局、まる10年続きました。

途中であきらめかけたことも?

あった。専門学校に入ると学校の人間と遊ぶのが楽しくなっちゃって、バンド活動を疎かにしたり。鬱の彼女の治療に専念したり。パチンコばっかりやってた時期もあった。
貧乏だったんだよ、普通に貧乏だった。
パチンコで生活してたもんね、一時期。
ただ、打ってる瞬間は楽しいんだけど、ふと我にかえったときに、違うんだよなって、ずっと考えてた。かれこれ10年間くらい。
パチンコ辞めてからわかったんだけど、何かに情熱を燃やしていたかっただけなんだよね。わかりやすいのがその日にすぐ成果がわかるパチンコ。だからハマった。
情熱が燃やせればなんでもよかった、だからパチンコ、競馬、バンドみたいな。

だから25歳くらいのときの自己概念、超低かったもん
だけど、自分に対する期待は高い。こんなもんで終わるわけがないみたいな
だから自分のこと嫌いだった、20代は。

30代になって変わりました?

面白いくらいに20代より30代の方が楽しい。明らかにガラっと変わった。
29歳から30歳に変わる時、変わるもんだっていうのを前提に20代を生きてたから、潜在意識は30代は素晴らしいんだ。楽になるんだ。って思ってた。だから全部いい方に解釈がむかう。
今日、天気が晴れているのも、俺が30代になったからだ、みたいなさ!

29歳から30歳の時点でビデオ店に勤められていたということですが、ビデオ店に勤められたのは何か理由が?

当時、バンドを辞めて荒れてたから、酒ばっかり飲んで暴れて、家の鍵は無くすし、歯は折るし。そんな毎日を1ヶ月くらい過ごしてたんだよね。
そしたらビデオ屋の社長が、歌舞伎町とかオカマバーとかストリップ劇場とか、ロイヤルホストとか連れて行ってくれるわけですよ
その時どん底の貧乏だったから、豆腐とご飯で過ごしてたんだけど、ロイヤルホストでステーキとかおごってくれて。しかもコーラ飲みながら!
ああVIPだなぁ、ビデオ屋って儲かるんだなって思った。
それを週2~3回つれていってくれるんですよ。
それで、だいぶ気が紛れてきて、社長が、しばらく俺の仕事手伝いなよって言ってくれた。毎日やることないしステーキ食えるんだったらいいなって思って入社した。
会社を作るだけで毎日こんな生活ができるんだろうな、すげぇな社会人!って思ってた。でも、あとでわかったんだけど、その時、銀行から1000万近くの融資が出てて、それを使って遊んでただけだっていう。

で、3ヶ月くらいで、会社のお金が底をついた。
資金難で問屋さんにお金を払うのを遅れ続けたこともあって。
で、当時、問屋さんとか怖い人が多かったので、その人たちに監禁されたりとか(笑)
何でおれなんだよ!とか思いながら、鍵ガシャーンってかけられたこともあった。

ある時、ゴールデンウィーク前に、新作で出るビデオが手に入らない状況になった。ゴールデンウィークって1年で2番目に繁盛する時期なのね、そのときにビデオがないビデオ屋ってビデオ店じゃないじゃんって。
でも現金ないのよ。だから、キャッシングでとりあえず30万とかガバっとだして、それで問屋に払ったのね、自分の名義で。
それで問屋さんから商品を送ってもらって、ゴールデンウィークを乗り切って、売り上げで返した。

1回やっちゃうと癖になるんだよ。
選択肢として確定してるの、お金が無くなった場合はキャッシングでって。
次また、資金難になって、またキャッシングして。次々とキャッシングの口座を作るわけ。
でも本人は自分に期待する力が高いから、いつか返せるから大丈夫。
って思ってたから、気づけば合計600万の借金とかになっちゃって。

それ20代ですよね?

20代!
社長がてっきり負担してくれるもんだと甘く考えてたんだけど、借金は肩代わりすることになってしまった。

現在、小冊子の作成プロデュースのお仕事だと思いますが、ビデオ店からどうしてこのようなお仕事へ?

ある時、ビデオ店のある店舗を閉めようということになった。
それで閉店のときに結構めちゃくちゃやったのね
閉店セールっていうふうにうたって、チラシを自分たちでポスティングして。
そしたら、それがすごい売り上げ出ちゃって。
普段2~3万しかなかったのが、閉店セールで1日10万とかになっちゃって
そしたら社長が味をしめて続けろ、と!
それで12月31日で閉店の予定だったんだけど、1月1日から復活祭り!
やっちゃった!
おかげさまで、経営をたてなおせることができました、ごめんなさい!みたいな。
そしたらお客さんにもふざけるなって言われて。
でも笑ってるんだよねみんな。本気のクレームはなかった
だからもう徹底的なバカな店にしようと思って。
勝手にタウン紙をつくったんだよね
江戸川の片隅からっていうニュースレター。
自分のお金でやっていって、ニュースレターとか自分たちで作って、文章作るチームと、ポスティング部隊と。ポスティング部隊は町の不良。
とにかく色々とやりきった。
もうここまでやりきったから、もうこの会社辞めようってなって、気持ちが吹っ切れて辞めます、と。借金も肩代わりするから、って。
そこが、ベースになってるんだよ。ニュースレターの製作の仕事の。
その時にやってた、あの江戸川でのビデオ屋での経験っていうのが、今の商売のベースになってるんだよね。

ビデオ屋をやめたあとの動きは?

ビデオレンタル店にアダルトビデオを営業するフルコミッションの仕事をやるんだよね。
個人事業でやってる人がいて、その人の下で商品を提供してもらいながら売れた分の25%、売り上げの25%をもらえるっていう
その代わり営業方法は自由っていうルールでやるんだけど、1ヶ月目で3000円くらいしかもらえなくて、2ヶ月目で2万円くらいで、どうやって生活したらいいんだよってなった。
なんでそうなったかっていうと、営業のビビリっていうのがあるから。全然営業できない。電話でも、ラチがあかない、業者なんか山ほどいるんだから価格競争にのまれるし。個人事業のお店が電話で信頼なんてとれないわけ
社長は、とにかくテレアポしろって言う人だったんで、社長が居ないときに小冊子の原稿とかを書いていた。
アダルトビデオの仕入れをみなおして、利益を上げる方法ていうような感じの小冊子の原稿が完成して、その小冊子を使って営業したら、一気に売り上げが上がったんだよ、大成功した
ただ、そのアダルトビデオの営業は一年もやってない。
しっかり稼いで利益を上げる前に、飽きて辞めちゃった。
妹にも、もうやめてくれ、と言われたし。
確かにそうだなぁって思って。
丁度そのころに小冊子の仕事っていうのが入ってきた。
アダルトビデオを小冊子の営業で売る変わった人間がいる。と口コミで広がって。コラム書いてくれとか、連載の依頼がきたりとかで、状況が一変した。

その時何歳くらいだったんですか?

その頃は31だった。
ビデオの販売だと、確実にお金も稼げるし、借金も返せるだろう、だけど夢は無い
小冊子の道は夢がある。
だけど、茨にもほどがある。
でもこのお兄ちゃん面白いっていってくれたり、あなたは絶対成功するっていってくれた言葉があった。それだけを信じて、こっちの道に踏み切っちゃた。
それからは、「いま何の仕事してるの?」って聞かれたら、「小冊子作成のコンサルティングをやってます、会社名はザ面白本舗です」みたいな。

個人事業としては大体どれくらいの期間を?

個人事業は、丸5年くらい。
会社としてはおととしの10月くらいから。

もともと起業しようっていう意識は?

全然なかった。
ただ、借金を返すために起業をせざるをえなかった。
奥さんが出てっちゃった時に、借金が月35万円位。
さらに俺、肝炎で、履歴書もどうやってもかっこ悪い経歴になる。
専門学校卒業から、間すっげーあいてるし。
20歳の頃から26歳までフリーターっていう経歴でもあり、健康診断とかやっちゃったら、肝炎でアウトになるし。
まともな就職はできないし、身体が弱いからあんまり無理ができない。
佐川急便とかでガッツでかえすとか、そういうのは無理。
だから選択肢がすごく少なかった
できることっていうのが、文章を書く事。
で、ちょっとアイディアが変わってるというか、そのぐらいしかない
発想力とか、文章力のみ。

選択肢が少ない中でよく気持ちを保つ事ができましたよね?

何があっても、本をかくネタだと思うことにしたのね。
自伝とかを後に書いたときに、一章、増える喜びとして、捉えようって
どっちか迷ったときには、居酒屋で爆笑できる方をとろうって。
居酒屋でしゃべったときに相手に爆笑されるような方法をとれば、面白くなるだろうなって。でもそっちのほうがきついんだろうなって
瀬戸内寂聴やテリー伊藤がいってたのよ。
ようは、選択をするときに困難な方を選べっていう。

テリー伊藤は、ネタになるほうを選べって。。

それを自分流に解釈したときに居酒屋で爆笑とれるふうにしようって思った。

だから、嫌な道ばっかり行った。
その小冊子の選択をしなきゃいけないのも、アダルトビデオを営業して借金を返しただけじゃ、あんまり面白くないんだよね。
そこからさらに、もう1個さ、負荷をかけるために、厳しい方を選んでいった。

会社名の「THE面白本舗株式会社」という名前の由来もそういったところから?

基本的に僕自身が、面白い人間だとは思わないんですね、自分で。
放っておくと結構地味になるので、自分を忘れないために。
仕事っていうものを面白くないものだって思ってたんだけど、ビデオ屋の仕事をやることによって、色々大変だったけど、ビデオ屋で社員になって働きはじめたとたんに、競馬とパチンコやめてんのよ。
一切やらなくなったの。
っていうことは仕事って自分の考え方とかで面白くすることできるんだっていう気づきをもらったんだよね、ビデオ屋のときに。

ということは、駅までむかっているサラリーマンは、自分で面白くしようとしてなかっただけなんだっていうのがわかった。
今後会社をやるにあたって面白い会社作りとか、社内の仕掛けとか、そういう面白い何かっていうものを、次々を生み出していくアイディアと実行力、実践を次々打ち出していける会社にしたい。
面白い事がいっぱいお店にいっぱいならんでるような会社にしたいなって思って。
で、バンドマンだったから、忘れないために「ザ」をつけた。

バンドマンのなごり
元バンドマンですっていう。
でも本当は、「ジ」なんだよね、でもそれだとアルフィーみたいになっちゃって。
なんかかっこ悪いかなと思って。だから「ザ」で。

ティッシュって、燃えるときに一瞬ブワーってもえるんだけど、すぐ消えちゃうじゃない
そういう感じの情熱ではなくて、火がついてるの?ついてないの?
と、いって炭を持ってみたら、アチッ!みたいな。
なんだこれついてんじゃないかよ!っていうような情熱。
やる気あんのかなこいつとか、元気あんの?って思われてたとしても、ふつふつと長続きする情熱を、俺もお前も持っていたらいいよね。っていう思い。
そういうような人を増やしたいと思うし、当然俺も、ずっとそうでありたいって思うので。
ティッシュから炭火へ火をうつすことって不可能なんだけれども、炭火に紙であるとかティッシュをのせれば、一瞬で火がつくでしょ。
そういう情熱を。

たとえばセミナーをうけてね、ああすごい!自分変わりますみたいな感じで3日後にはあれなんだったんだっけなっていうような事あるじゃない、本を読んでも。
そうじゃなくて、ずっと、高くなくてもいいから保ち続けるモチベーションみたいなものが、俺もお前も持てるといいね。って思ってる。

他に何かアドバイスがあれば

これは岡崎太郎さんの本にのってた、すごいいい言葉だなって思ってるのが、結構僕を支えてる。
「最悪の時をイメージしてみて、その時にどういう選択をするかってことだけ決めとけ」
みたいな内容。
俺はそのときに何しようかなと思ったら、北海道に逃げようと思ってるの。
北海道に、北に逃げて、焼き鳥屋の見習いで串を刺すっていうふうに決めてるの
串に焼き鳥の鳥を、刺す仕事からまた出直そうって決めてるのね
そうやってイメージしたら全然最悪じゃなくなっちゃって、むしろ1回やってみようかなみたいなさ
そんなもんなんだ、っていうふうに思ったの!
最悪っていっても結構楽しそうじゃんって思って。
もちろん最悪の状況になるのは嫌だよ。
ただ、最悪でもそういうことが待ってるんであれば、今の人生で、生ききれる。
変にアクセルをゆるめたり、一生懸命やるところを手抜かないでいい、本気で喧嘩をふっかけることもできるわけ!

そういうふうにイメージしていくと、人生は全然、落ち込んでる暇がないから最悪なんてそんなに最悪じゃないっていうふうになる。
借金が1000万とか1億とかあったとしても、いいじゃんみたいなふうに思える。

だから、100%出していこうよ、情熱をずっと100%出し切れる人間でいればいいよねっていうふうに自分も毎日そう思いたい。
日本の大人が20代が、そうやって思えれば子供がそれをみたときに、大人ってなんか楽しそうでいいなって。
だから早く俺も大人になりたいっていうふうに思ってくれる子供が増えてくれれば、日本が不景気だろうが明るい元気な国になるんじゃないかって思う。
それを俺らはどういう形で実現させていくかってことがテーマかな。

今回どうも、ありがとうございました!