62人目 東浩司さん:株式会社ソラーレ

会社名:株式会社ソラーレ
URL:http://ameblo.jp/azuma-papa/
公開日:2010年10月31日


今回の旅は、株式会社ソラーレ 東浩司さんです!

自己紹介とお仕事内容を教えてください。

東浩司といいます。
1971年名古屋生まれの39歳です。
株式会社ソラーレの代表をしております。
社名はイタリア語で「太陽」という意味。
研修講師の仕事をしているんですけど、
太陽みたいに明るく楽しく元気な研修をやりたいなと思い名づけました。

現在のお仕事につかれるまでの経緯を教えてください。

大阪大学の人間科学部を卒業して、
企業研修をやっている富士ゼロックスの子会社に新卒で入社。
そこで6年間営業として勤務した後、
異業種で転職を6回繰り返しました。
アウトドアショップに一年、
居酒屋の和民で人事を一年、
学習塾の東京個別指導学院の室長を経て、
東京電力のグループ会社で社員研修の仕事を4年間続けました。
その時に子供が生まれたんです。
「子供の前では笑顔でいたいよな、もっと長く一緒にいたいな」
と思い、会社を辞めてNPOに入りました。
そこを辞めて独立をしたのが2年前の6月ですね。

多くの異業種に転職していますね。
何か目的があったんですか?

目的と呼べるものは何もなかったですね。
その時は夢を追いかけていた。と思っていました。
でも今振り返ると、不平不満が多くて転職を繰り返していました。

インタビューのテーマが29歳なのですが、
その頃は何をされていましたか?

29歳はぼくの人生のピークでした(笑)
アウトドアショップに転職したのが29歳。
自分の好きだったアウトドアの仕事に就けて、
「自分の人生がこれから広がっていくぞ」
と希望に溢れていましたね。

アウトドアの仕事にそんなに思い入れがあったんですか?

大学時代はサイクリング部に入っていたんですよ。
「ランドナー」というツーリング用自転車に乗って、
夏になれば北海道に行って、
春になれば九州に行って、
1年の内120日は自転車で旅をしてキャンプをしていたんです。
残りの120日は、ツーリングのための資金稼ぎ。
肉体労働で稼いでましたね。
そして、残り120日は何をしていたかというと、
大学には週1回くらいしか行かず、
一人暮らしの下宿で天井に貼ってある日本地図を眺めていた。
自分が走った所を整理して、
「次はあそこに行こう、ここに行こう」
と考えていましたね。
大学の3年間は自転車ばかりをやって、
4年生の4月から就職活動をスタートしました。
あまり就職する感覚がなかったんだけど、
とりあえず区切りを付けて、自転車以外にやりたいことを考えた。
その時のテーマが「環境」だったんですよ。
自転車でずっと旅行をしていて、
当時はバブル経済でしたから
日本がリゾート化されている時期だったんですね。
どんどん景色が変わって護岸も埋め尽くされて、
沖縄もホテルがどんどん建っていって
自然も変わり林道も舗装されていく。
これはどうにかしなくては、と思い、
大学4年生の時に環境保護のボランティアを始めたんですね。
いずれ環境とかアウトドアの仕事に就きたいと思って。
そうはいっても、
いきなりNPOに行っても役に立たないと自分でもわかっていたし、
一度企業に勤めたほうがいいとアドバイスをもらったんですね。
ボランティアを通して富士ゼロックスの人と知り合った。
仕事の話になって、
環境に関わる仕事がいいけど食えなさそうだし、
人間科学部にいて人間に興味があると話をしたら、
「富士ゼロックスの子会社で社員教育をやっている会社があるよ」
と勧められたんです。
たまたま翌々週に会社説明会があって、
そこに行ったら初めて
「ここに入るのかもしれない」
と直感で思いました。
入社して、6年間営業の仕事をしました。
首都圏に本社がある会社に1000社以上訪問して、
会社によって研修の現場が違うんだと肌で感じましたね。
仕事は楽しかったし、給料も結構もらっていました。
28歳の時に『岳人』という雑誌を見ていたんですけど、
アメリカで有名なアウトドアショップの
REI(Recreational Equipment Inc.)が
日本に初出店するニュースが片隅に載っていたんですよ。
翌週にアメリカのシアトル本社に
英文で日本のオープニングチームに入れてくださいと手紙を書きました。
そして、採用も決まっていなかったけど、
会社に「仕事を辞めます」と伝えました。

急な退職表明。
周りの人には反対されませんでしたか?

僕を育ててくれた直属の上司に言えなかったんですよ。
他の先輩には
「アウトドアの仕事をしたくて、こういう募集がある」
という話をしていたけれど、
上司に言うのに9か月間かかったんですね。
アメリカのホームページに募集要項がアップされた時、
採用は決まっていなかったんだけど、
ようやくその上司に言うことができて。
上司も「わかった」と言ったんだけど、
翌日に目を真っ赤に腫らせて
「もうちょっと待ってくれないか」
と言われて心は揺れました。
でも、自分の夢を追いかけたくて辞めたんですね。
それが、1999年の6月30日です。

すぐにアウトドアショップで働き始めたんですか?

ちょっとブランクがありましたね。
その間は、海の近くに住みたくて、
藤沢市の辻堂にアパートを借りて引っ越したんですね。
ロングボードを買ってサーフィンを始めたら、
アメリカに行くことがどうでもよくなってしまいました。
次にシーカヤックの船を買って、
奄美の島々や沖縄を巡りましたね。
それから知り合いとネパールに旅行へ行きました。
貯金が尽きかけてきたら、
蔵王のスキー場で3か月住み込みのバイトをしながら、
趣味のテレマークスキーをしたり…。
そうこうしているうちに、
アウトドアショップの採用選考がようやく始まったんですね。
年収が半分になっても構わないし、
どんな仕事でもすると言いました。
南町田のグランベリーモールにある店舗で
オペ―レションやカスタマーサービスを担当するリーダーとして採用が決まりました。
お店には社員30人、アルバイトが100人ほどいましたね。
お店のオープンが2000年4月20日です。

実際に働き始めてどうでしたか?

アメリカのお店なのでフレンドリーな接客をしていました。
お客さんと普通に世間話をするような感覚で、
僕自身はすごく楽しかったですね。
仕事とプライベートの境目もなくなっていて、
みんなで休みの時に山登りに行くと、
そこで出会った登山客に名刺を配って
「うちのお店に来てくださいよ」と、
休日の方が営業していました…。
途中から広報部門のイベント担当になり、
日本中の冒険家や環境保護団体の人など、
本で読んだ憧れだった人たちをお呼びして、
イベントを主催することができたんです。
カヌーイストの野田知佑さんや、
アウトドアエッセイストの木村東吉さん、
片山右京さんに一周年のイベントに来ていただいたり、
冒険家の九里徳泰(くのり・のりやす)さんに店で「冒険塾」という
連続の講座を開いてもらったり。
最高に楽しかったですよ。
ただ、僕も他の従業員も、
アウトドア大好きだったんだけど、
売上や利益がそれほど大好きではなかった。
だから、あっという間にお店が傾いてしまって、
店の雰囲気もだんだん悪くなってきました。
お店がオープンしてから1年経った2001年6月20日、
アメリカ人の社長がやってきて、
定休日に全社員を集めたんですね。
僕らはお気楽に、
「2号店の件じゃないか」
と予想していたんですが、社長はこう言いました。
「このお店は年内で閉鎖する」
「You are fired」
と言われてクビに。
店舗のスタッフは年末まで仕事を続けられたのですが、
広報という間接部門にいた僕は10日後にクビになったんですね。
もう、夢も希望もなかったです。
会社から解雇の保障金が入ってきたのでお金に不自由はなかったけれど、
何をしていいのかわからなかったですね
ただ、「冒険塾」の特別授業のような感じで、
7月に受講者で富士山の山頂で会うことが決まっていたんですよ。
僕はやることがなかったので、
自宅の辻堂から4日間あるいて富士山まで行きました。

気持ちの切り替えになりましたか?

多少癒されましたけど、まだ働く気持ちは全然起きませんでした。
だから、8月に北海道へ行ったんです。
大学の後輩が北海道で農業を始めていたので、
1か月農業を手伝わせてもらった。
そこで、農業ほどグローバルな経済を感じる仕事もないなとわかって
農業は難しい!と思ったんです。
例えば、じゃがいもや玉ねぎの腐りにくい野菜って、
中国やブラジルから来たものが圧倒的に安いから作っても売れないんですね。
後輩が作っていたのはレタスだったんです。
レタスは傷みやすいから輸入はできないでしょう。
で、彼に農業で年収を聞いたら、
650万円というんです。
なかなかいいじゃないか、と思ったんですが、
経費が600万円かかるというんですよ。
これはダメだと思って、
北海道から東京へ戻ってきました。

東京に戻ってからはどうされたんですか?

ハローワークに行き始めました。
でもある日、冒険家の九里さんから電話がかかってきたんですね。
「暇だったらヒマラヤに行こうよ」
と言われて、ヒマラヤに2か月ほど行っちゃったんですね。
出発前に現在の妻である彼女にそのことを告げると、
「私と山とどっちが大事なの?」
即答で「山!」
と答えたら
「バカ!」
と言われ、
彼女との関係も終わったなと思いながらもヒマラヤへ。

行ったんですね(笑)
ヒマラヤはどうでしたか?

ヒマラヤの「チョ・オユー」という世界第6位の山でした。
登山をするために中国政府に1万ドルの支払わなくてはいけなかったんです。
九里さんはスポンサーを集めてお金を出したんだけど、
僕も正規の登山隊に入るとお金を払わなくてはいけない。
「単独でチベットのティンリーという町に来て、そこで落ち合ったことにしよう」
と提案されました。
大阪から上海まで船に乗っていき、
上海からは成都というチベットのラサの玄関口になる街に入って、
ヒッチハイクでティンリーという街を目指していったんです。

登山する前からすでに冒険ですね。

ティンリーで無事落ち合うことができました。
片山右京さんもいて、
チョ・オユーの登山をレポートすることを仕事として兼ねていましたね。
5500mのベースキャンプに3週間一緒にいたんですけど、
いろいろ話してくれておもしろい人なんですよ。
結局、右京さんと九里さんも登頂することができました。
実は、ぼくは途中で迷子になっちゃったんです。
3日間、標高5000m。
自力で山を下れたとしても人が住んでいる所まで1週間かかる場所で、
食料もなく迷ってしまい、
「これはもう死んだな」
と思いましたね。
本当に毎日が極限状態だったんですよ。
僕はその場所にいたら、神様が上から降りて
「おまえの進むべき道はこれじゃ」
と言ってくれると思っていたんです。
でも、ずっと待っていたけど、何も起きなかったですね。
これは余談でセミナーのネタにしているんですけど、
僕はヒマラヤである世界最高記録を樹立したんです。
大したことじゃないですけど、
「世界で一番高い所に露天風呂を造った」
という記録を持っているんです(笑)
右京さんが山頂へアタックしていた時に、
右京さんの事務所「片山企画」と連絡を取り合う係になったんですね。
右京さんとトランシーバーで、
「山頂に着きました!」
というので、
「おめでとうございます! 右京さん、今何をしたいですか?」
と聞くと、
「風呂に入りてぇ!」と。
ヒマラヤ登山をしていると2か月くらい風呂に入れないんですね。
5500mの高さでは空気中にホコリやチリがないんですよ。
汗をかいてもすぐに乾くし、体もベトつかない。
極限状態の場所なのでウイルスも生きることができないから、
風邪も引かない。
高山病で常に頭は痛いし、
酸素は地上の半分しかないので辛いんですけどね。
右京さんが山頂から下って来るまで2日くらいかかるので、
ネパール人やチベット人のシェルパ、ポーター、コックさんに
手伝ってもらって穴を掘ってビニールシートを張って、
右京さんが来るタイミングでお湯を沸かしてお風呂に入れたんですよ。
ぼくはその間、何をしてたかというと、「チョ・オユー」に登っていたので、
「超お湯」というお風呂の看板を作っていました。

くだらないけどおもしろい(笑)

看板とお風呂に入った写真を撮り、
日本に帰ってきてから、
モンベルの商品カタログにもお風呂に入っているシーンが載りました。
『BE-PAL』や『岳人』に掲載されました。
編集部の人に、
「東さん、これギネスに載りますよ。
エベレストのベースキャンプでお風呂に入った記録は4800m。
5500mで風呂に入るのはあり得ない」と。
それから10年間。何も連絡が来ないので、
多分ギネスには載っていないんでしょうね。

現在39歳でパパに関するお仕事に特化されていますよね。
お子さんの誕生をきっかけにアウトドアから関心が移ったんですか?

山から下りてから、
日本で待っていてくれた彼女と結婚をしたんですね。
それ以来、旅や山登りをしていない。
それまで僕の中心は旅だったのに、
結婚をしたら旅をする気持ちがなくなってしまって、
代わりにキャリアの旅が始まったんです。
何でもいいからゼロからやり直そうという気持ちになって、
ワタミが出資している
採用コンサルティングを行っているベンチャーの会社に転職したんですね。
ただ、富士ゼロックスにいた時の仕事スタイルが色濃く出て、
ベンチャーの仕事の仕方に合わなかったんですね。
そうしたら、ワタミ本体から誘いがあって、
ワタミで人事の仕事をしました。
わずか1年ですが、渡邉美樹さんと一緒に仕事をして、
貴重な経験をしましたね。
ただ、店長を経験してなんぼという風潮があったので、
中途入社で本社の人事の仕事をしても説得力がなかったですね。
一回店長を経験しようかとも思ったけど、
「昼夜逆転の生活をするとすれ違いがあって、絶対に離婚する」
と奥さんに反対されたんです。
それで、当時も今もワタミが好きなんですけど、退職しました。

次のお仕事はどうでしたか?

転職エージェントから紹介された、東京個別指導学院です。
子供の教育にも興味があったし、
企業研修のスキルが活かせると思いました。
ただ、社員に対するマネジメントはものすごい厳しくて、
僕はうつ病になってしまったんです。
でも、そこを何とかくぐり抜けて社長賞を受けることができたので、
それをきっかけに転職しました。
東京電力のグループ会社のキャリアアライズが研修事業を立ち上げる所で、
そこに入社しました。
「東電の会社だし、今度こそここに骨を埋める」
と奥さんにも約束して、4年間働いたんですね。
会社のカルチャーとしては安定志向があったので、
僕は浮きまくっていたんですよ。
それでも給料がもらえるからそれでいいかなと我慢をして。
役職が上がるほど自分の感情を殺してやってきました。
そんなとき子供が生まれたんです。
家に帰って赤ちゃんの前で笑顔になろうと思うんですけど、
職場の人間関係でストレスがあると笑顔になれないんですね。
娘の前で笑顔になりたいと思ったのが独立した理由の一つなんです。

そのとき設立した会社が現在の(株)ソラーレですね。
「自分らしく しあわせに働く」をサポートすることを目的に研修などされていますが、
20代の若者にアドバイスをお願いします。

「たくさん失敗したほうがいい」ってことですね。
今、専修大学で「日本一おもしろいキャリアデザイン講座」というのを
やらせてもらっています。
90分の講義のうち僕が話すのは半分しかなくて、
残りは僕の友達を毎回10人くらい呼んで学生とグループ討議をしてもらうんです。
「就活が始まる」と言って、
周りもやっているし厳しいからがんばらなくてはとアクセルを踏んでいるんだけど、
心の中では「本当は働きたくない」
とサイドブレーキをかけているんです。
それでは消耗してしまう。
だから、サイドブレーキをはずすために、
「仕事をするのが楽しい、いろいろ大変かもしれないけど、
大人になるのはいいものかも」
というプラスのメッセージを持つことが大事だなと思う。
普通は就活セミナーで有名なITベンチャーの社長さんがお話をされて、
刺激的でモチベーションも上がるんですよ。
でもすごい人の話を聞いても実は役に立たなくて。
だから僕が専修大学の講座で友達を呼んでいるのも、
なるべく普通の社会人の人を呼んでいます。
普通の人が人間関係の悩みやしんどさで失敗することも多いけど、
夢や希望を持って頑張っていることに気づいて欲しいんです。
人間が変わるのは、気付いたことを行動に移して、
行動を習慣にしていく過程。だから気づきが大切なんです。
お蔭様で、講義は好評で今年で3年目になるので僕も楽しんでいます。

気づきを得るために自分でできることはありますか?

「人との出会い」ですね。
僕自身いろいろな人に出会って、
最近やっと自分自身の夢もわかるようになってきたし。
よく学生さんが
「私、夢がないんです」
と言うけど、夢は見つけるものでも探すものでもなく、
その人の準備ができたら自然と思い出すものだと考えているんですね。
誰にでも必ずあるんです。
でも、人間は自分が経験したことの中でしか想像できないんですね。
頭の中で一生懸命考えたとしても、
学生さんならたかだか20年の人生経験しかないから、大した夢は抱けない。
よく会社説明会で「キャリアビジョンを持ちなさい」と言われているけど、
今までの学生経験で出てきた好きなことや想像できる範囲で
キャリアビジョンを描いたってあまり意味がない。
だから、学生さんには
「キャリアビジョンなんていらない」
と言っているんですよ。
学生のわずかな経験の中で
「自分はこれが好きだ」と決めてしまうのは勿体無い。
日本には会社が550万社、職種が3万あると言われている中で、
学生さんの志望企業を聞くと、名前が知られている企業ばかりなんですね。
「世の中にはいっぱい仕事があるし、会社もあるよ」
ということを見せるには出会いなんですね。

本当にその通りですね。
僕も学生時代に今のような仕事をしているとは想像もしませんでした。
では、最後に29歳当時の自分に向けたメッセージを
色紙に書いてもらえますでしょうか。

今日はどうもありがとうございました!