68人目 吉田恵助さん:株式会社菩提樹

会社名:株式会社菩提樹
URL:http://ameblo.jp/heisukesan/
公開日:2010年11月24日


今回の旅は、株式会社菩提樹の吉田恵助さんです

初めにお仕事のご紹介をお願いします。

私どもの会社は株式会社菩提樹といいます。
「かつ吉」というお店が水道橋、渋谷、新丸ビルにあります。
水道橋店は48年、渋谷店は21年、新丸ビル店は今年で3周年です。
今日来て頂いた「菩提樹」水道橋店は今年で28年目になります。
祖父が創った会社を兄弟で分けた経緯があり、
祖父の代から遡るととんかつ屋として50年以上になる会社です。
私はこの会社に27歳の時に入社しまして、今年で12年目になります。
統括支配人として、4店舗のお店の人材育成をしながら、
お店を健康的な経営状態へ導くよう日々精進しております。

人材育成がメインになるんですか?

人材育成とメニュー開発を主に行っています。
飲食店は内装なども大事ですが、人で決まる部分が大きいですから。
トータルでお店の総合力を上げていけるよう考えています。
人が育てばお店も成長するという考えです。
ですから、毎日全店舗に顔を出しています。
お店は生き物と思っていすので、
いくら同じスタッフで営業をしていても
病気になりかけることがあるんですね。

病気とは?

人間関係がおかしくなったり、やるべきことができていなかったり。
お店の空気は本当に毎日変わるので、
良い時は放っておいてもいいんですけど、
彼らが大きな壁にぶつかったり迷い込んだしまった時に、
適切なアドバイスをできるように毎日顔を出しています。

27歳以前はどういった経歴を?

子供の頃から「とんかつ屋を継ぐのか?」
といろんな人に聞かれるのがすごく嫌でした。
父親と比べられることがとても嫌だったんです。
学生のときは土木工学科という理系の学校に行って、
橋やダムを作る勉強をしていました。
物作りは男のロマンだと。
でも実際に勉強していくとそんなにワクワクしませんでした。
ダムは何十年、トンネルも同様に1つのものを作るのに
相当な時間がかかるので、これは性に合わないなと。
ギリギリになって自分の人生を真剣に考えました。
やっぱり小さい頃から触れ合っていた飲食店は、
お客様に目の前で喜んでもらえるし、
小さい頃に食べた「とんかつ」の味も忘れられない。
飲食業は魅力的だし、自分に合っているなと。
そこで、「どこか飲食のことに携われる食品メーカーなら」と思い、
食品会社の営業マンになって修行をさせていただこうと思いました。
まずはキリンビール社を受けましたが、
就職氷河期なので、人がたくさん集まってかなりの倍率。
色々な方に助けていただいたおかげでしょう、
奇跡的に内定を頂きました。
そして、キリンビール九州支社にて営業マンとして5年間、
27歳まで博多にいました。

博多でずっとお仕事をされていたのですか。

「東京から離れたほうがいいだろう」という
キリンビールさんの気配りや心遣いだったのかもしれません。
初めて東京を離れ、知り合いのいない「ゼロ」からの出発が、
自分にとって良い経験になりました。
甘えが許されない中で、先輩方に叱咤激励されて、育てていただきました。

お仕事は飲食店を回って「ビールを導入しませんか?」という営業スタイルなんですか?

飲食店さんに直接営業活動をしたり、
お酒屋さんにお願いして商品を扱ってくれるお店を増やしてもらいます。
博多の活発な地域の、とても個性的なお酒屋さんを担当させていただきました。
毎日業務用のお酒屋さんと様々な場所に飲みに行きましたね。
お酒は弱かったんですが、
鍛えていただいて、だんだん飲めるようになりましたよ。
先輩たちはみんなお酒が強いですから、
接待のない日は先輩の仕事について行って飲んでいました。
何もない日は同僚とも一緒に飲んでいましたね。
365日ビール漬けでした(笑)
先輩方にはお客様に対するマナーをたくさん教えて頂きました。
例えば、お座敷で飲む時に女将さんが来るじゃないですか。
挨拶するときは座布団から降りなくちゃいけないのですが、
最初はそのことすら知りませんでした。
「そんなことも知らないのか」と言われながら、
一つひとつお酒のマナーを覚えていきました。
いい先輩方に恵まれました。
ちょうどその頃はビール戦争と言われていた時代。
その時代に素晴らしい先輩方と一緒に働かせて頂きました。

いい経験だったんですね。
でも5年でそのお仕事を辞められたんですか?

本当は3年で辞めるはずでしたが、
その当時の部長さん(平野さん)に2年延長させてもらいました。
最後の2年は飲食店さん専門の部隊に入れてもらうことに。
実家に戻ったらできない勉強をさせていただきました。

それでは27歳以降のストーリーを教えてください。

27歳のときはここ(菩提樹水道橋店)にいました。
私は飲食の理想を抱いて戻ってきましたが、
やはり理想と現実は全然違いました!
当時はバブルが弾けて日本の飲食店全体が落ち込んでいるときでした。
弊社も新宿の高島屋にお惣菜を出していて、失敗が続いていた頃で、
会社の中がゴチャゴチャしていましたね。
27歳の頃は掃除ばかりしていました。
キリンビールのとある先輩から
「吉田君、成功したかったら毎日掃除してみな」
と言われた言葉を、良くわからないままに信じて、
他の社員よりも30分早く出社して、毎日店内や店外を掃除していました。
そうしていくと、不思議とお店の気が上がり、トラブルも減り、
いい人材が入ってきて、ビックリするほどの手応えがありましたね。
閉店も考えていたこのお店が、
社内で一番の売上げを上げるお店に変貌した時は鳥肌が立ちました。
続いて隣の店舗もトラブルが絶えないということで、
異動し店長とお店を改善していきました。
すべてがギリギリの状態でしたが、二人で大きな壁を乗り越えていきました。
その頃はとんかつの技術を学びながら、
空いた時間にはいつも掃除をしていました。
手帳にはいつも
「賄いレシピ」と「掃除リスト」
を書いていました。

掃除をずっとされていたというのは意外でしたね。

先輩に言われただけではなくて、
九州時代にお世話になった飲食店の経営者の方々の、背中を見て学んだことが、
この頃生きたのではないかと思っています。
ただ、周りからは変人の様に見られていましたよ。
「あの人はいつも掃除ばかりしている」と言われていましたね。
私も掃除がそんなに好きだったわけじゃないですけど、
仕事の基本は掃除ですし、とくに飲食業ですから。
従業員のトイレを掃除していると、
「社長の息子なんだから、そんなことしなくていいんだよ」
と言う人もいたけど、その当時は放っておいたら誰もしませんでしたので。
それにお店全体の運気が掃除でどれだけ上がるかを、
自分の手で確かめたかったんです。
29歳のときに一旦料理の勉強を辞めて、
真剣に「かつ吉」水道橋店のマネジメントを店長と一緒に行いました。
その店長は今の「かつ吉」新丸ビル店の店長武澤です。
彼がいなかったら今のこの会社は無かったなと、いつも感謝しています。
彼とは休みが月に1回あるか無いかの状態で、
二人三脚のように壁を乗り越えていきましたね。
自ら掃除を楽しく行い、掃除の大事さをみんなに伝えたりしていると、
明るく元気な人達が入社してくるようになりました。
自分が頑張ることでお店が変わっていく手応えが
少し出てきた頃でしたけど、
古い先輩方とはしっくりこないこともありました。

厳しい時期だったんですね。

誕生日の記憶なんてないし、休んでいないでしょうね。
29歳の頃は次女が生まれて2ヶ月の頃で、妻にも、
「その頃のことを覚えている?」
と聞いてみましたが、
彼女も覚えていないほど家庭も大変でしたね。

では30歳に対しての不安や焦りはとくに考えもせず?

いろいろと悩んではいましたよ。
自分の理想をみんなにぶつけても
受け入れてくれない人もたくさんいましたから。
お客様に喜んでいただいて、
お店がどんどん変わっていく喜びはありましたが…。
その当時、「かつ吉」渋谷店と「菩提樹」水道橋店には
それぞれ違うマネージャーがいて、
会社全体で見ると人間関係もいろいろと問題がありましたね。
かといって、相談できる人もそんなにたくさんいるわけじゃない。
そこでキリンビールでお世話になった大先輩(智田さんや園部さん)に、
話を聞いていただいたりしていました。
話を聞いていただいただけで、
心が軽くなったのを今でも覚えています。

夢や希望という場合ではないですね。

野望のようなものはありました。
毎日とんかつのことを考えていたので、
「おたくのとんかつ、ハワイに出したらいいんじゃないの?
私たち、ハワイに行くけどおいしいお店がないの」
とお客様から褒められるようになったんですね。
「お寿司や天ぷらは海外でも有名なのに、
とんかつは世界で見るとそんなに地位がないのかな?
いつかニューヨークにとんかつ屋を出そう!」って。

では、今の野望みたいなものは何かありますか?

今はその頃のような野望ではないですが、
ただ本物のとんかつを1人でも多くの方にお召し上がりいただいて、
その方の人生を少しでも豊かにすることができたら嬉しいですね。
日本は元気がないと言われていますけど、
とても素晴らしい国だし、世界的に見ても精神性は高いと思います。
私達の会社では、ご飯やお味噌汁・お漬物という日本の食文化を守っていきたいと思っています。
飲食はやろうと思ったら簡単にお店ができてしまいます。
食材の美味しさを引き出す作業は大変ですが本当の美味しさが提供できますが、
そこまでやらなくても商売は出来るんですね。
でも手間隙かけたお料理を作っている人間の気持ちが入ったときに
お料理は本当においしくなるんです。
それが人を育てることにもなります。
うちはテーブルも手作りで、父が買い付けてきた材木を磨いています。
仲間(スタッフ)達と一緒になって、汚れた部分をピカピカにしています。
メニューも全部手書きです。
手作りには人の気持ちが入ります。
お料理ももちろん手作りの「気」がお客様に伝わり、
「このお店に出逢えて幸せ!」
というお客様が増えてくれれば幸せだなと思っています。

トップとしていろいろな業務をされています。
経営をするうえで学ぶことはたくさんあると思います。

勉強も必要ですし、自分を磨くことも大切ですが、
それよりも大事なのは「ありがとう」です。
「感謝の気持ち」を一番大事にしています。
スタッフたちや自分を支えてくれている家族、仲間たちに
感謝の大切さをいかに伝えられるか。
でも腑に落ちたのは最近のことなんですよ。

腑に落ちたきっかけはありますか?

お店を1軒作るのは、それこそ家を1軒、家族を1つ作るようなものです。
私にとっては自分の家を含めると、5軒の家がある。
そこに店長というお父さん役、お母さん役の人とか色んな。
うまくいくときとうまくいかないときもあります。
喧嘩するくらいならいいんですけど、
毎日色々なことが起きます。
お客様と毎日触れ合っていますから、楽しい事ばかりじゃない。
お叱りを受けるときもあるし、
事故でお味噌汁をかけてしまうこともあります。
そんな時にスタッフ全員で1人の失敗をフォローすることで
絆がすごく深まります。
そういう事をたくさん乗り越えてきて、
有難い仲間がいることに気付きだしました。
そして大きかったのが、
今年の1月に親友が亡くなりました。
病気で急に心臓が動かなくなって。
中学校の頃から仲の良かった幼馴染みがいなくなりました。
今日、こうやってお会いして、
次回も何かでお会いできるとは思うんですが、
この世に絶対「また会える」という事は無いんだなあと。
うちのスタッフ達とも何か奇跡的なご縁で繋がっているんだなということに、
やっと気付けたんです。
我々の仕事はそんなに楽な仕事ではありません。
体育会系の雰囲気ですし、肉体的にも大変な仕事だと思っています。
すべて手作りで美味しいお料理を提供し続けることも、
毎日続けるのは精神的にもタフでないと出来ないことだな思っています。
仲間達が一生懸命に汗を流してやってくれているご縁に
私が感謝できなかったら、本当に申し訳ないと思います。
最近では私が仲間に感謝できなくなったら、
すべてお終いだろうなとさえ思うようになってきました。
今は感謝の大切さをみんなで共有していこうと、仲間達に色々と投げかけています。

社員に伝える。
トップとしてどのように工夫して伝えようとしていますか?

一時は店長とばかり話をしていました。
どのお店も最終的な判断をするのは店長ですから。
それはもちろん大事なことです。
でも最近は意識して正社員、アルバイトさんとも会話を交わすようにして
彼らの話を意識的に引き出すようにしています。
そうすると、スタッフ達から、
「この間、彼女と別れました、相当泣きました」(笑)とか、
「子供が可愛くて仕方ありません」とか、
「お客様にこんな事を良く聞かれます」等等、
笑いながら色々なことを話してくれる関係になったんです。
一方的にこちらから伝えるのではなく、
きちんと人の話を聞くようにしたです。
私は人の話を聞くことは得意ではありませんでしたが、
とても大事なことだと今は思っています。

最近、僕も感謝をようやく意識し始めました。
社長インタビューをしていく中で、
「それはおまえ違うぞ」
と叱ってくれた方がいたのですが、
昔だったら
「そんなこといちいち言わなくても」
と思ったかもしれませんが、
今は本当にありがたいことだと受け止めれる自分がいます。

25歳のときにサラリーマン時代のお客様で、
福岡に本社がある豆腐料理屋の「梅の花」の社長(梅野さん)が、
「私はすべてに感謝ができるようになってから変わった」
とおっしゃっていたんです。
いろいろな業態で何度も失敗もされたらしいのですが、
ある時ふと神社に行ったら
「すべて感謝だよな」
と魂が震えたらしいんです。
「感謝」に気付いたんだよと。
それ以降やることなすこと全てがうまくいったそうなんです。
私も営業マンでしたので、
「良いお話をありがとうございます」と少しわかった風に答えていましたが、
「感謝は大事だけど、すべてに感謝?」
と、本当は良くわかっていませんでした。
私がキリンビールさんを退社するときに、
梅野さんと会食をする機会を設けていただきました。
「吉田君、実家のメニューは全部頭の中に入っているのか?」
と言われたのですが、全然頭に入っていなかったんですね。
「お前、そんなことじゃ会社を潰すぞ」
とものすごく叱られました。
何でこんなに怒られるんだろうって思いましたが、
今思うとそれは凄い愛情をいただいていたんだなと、
私の甘さを見抜き、叱ってくれたことに、
今では心から感謝しています。

~~~同行サポーターからの質問ターイム~~~
私は今26歳なんですが、
吉田社長が26歳のときにやっておいてよかったことや
これをやっていたほうがよかったことは何かありますか?

仕事にしても出会いにしても、
好き嫌いをせずにいろいろ興味のあることを
やってみることじゃないかな。
これから失敗して悔しかったり恥ずかしかったりすることも
いっぱい出てくると思いますけど、それが肥やしになります。
20代のときのものが30代で花咲いたりと。
キリンビールさんで働いていた25歳のときに、
博多の有名な焼鳥屋さんが他社のビール銘柄へ変えられてしまったんです。
先方の社長さんとの商談を甘く見ていた自分がいました。
部長がそういうならしかたないという、
他人任せの情けない選択をしてしまったんです。
それが原因でとんでもないことになってしまうんですが、
後悔というか、自分が情けなくなりました。
でもその失敗があったから
誰に反対されようと自分がこうと思ったことは貫こうと、
仕事は自分の責任だなと強く思えるようになりました。

なるほど。
私はITのシステム系の仕事をしているんです。
会社自体の雰囲気は悪くないですし、
先輩とも仲はいいです。
その職場がぬるいわけではないんですけど、
そこまで必死というわけでもないんです。
だから、もっと追い込むのもアリなのではないかと。
何十年も同じ職場にいる方もいるので、
そんな風に先に進んでいくことが見えてしまうと
「何か違うんじゃないか、自分でいろいろ探してみたい」
という気持ちになってしまいます。

それはみんな通る道じゃないですか?
ただ自分の人生は自分の思うようになるので、
朝起きたときや夜寝る前に
「俺はこんな風になりたいんだ」
とリアルに想像していると想いを引き寄せると思います。

~~~同行サポーターからの質問タイム終了~~~
では「これから起業したい、新しいことにチャレンジしたい」
と考えている若い人たちに20代でやっておくべきことがありましたら、
ぜひメッセージをお願いします。

先ほどお話したことと重複しますが、
ご縁のあることに「これでもか!」と思うくらいやってみることですね。
20代は悩む時期だと思います。
20代の悩みと30代の悩みはまた違うでしょうが。
若いときだからこそ出せるエネルギーを出し切ること。
そうすると、思ってもいないような出会いがあり、
人生を変えてくれたりします。
それは自分のがんばりがあったからこそ、
道ができるんじゃないかと。

なるほど。
最後に、29歳のご自身に向けたメッセージを色紙にお願いしています。

がんばっていたんですね。

それしか思い浮かばなかったです。
あの頃はがんばっていましたからね。