72人目 森川功一さん:株式会社大同

会社名:株式会社大同
URL:http://www.d-consulting.jp/
公開日:2010年12月10日


今回の旅は、株式会社大同の森川功一さんです!

まずは自己紹介をお願いします。

株式会社大同という今年で101年目になる会社の社長をしております。
社長には平成18年に就任し、今年で5年目です。
経営者としては9年目になります。
事業内容は名古屋の地下街を中心に
不動産業をしております。
東京では経営コンサルタントを中心にやらせていただいております。

東京と名古屋のどちらが中心になりますか?

僕個人としては東京です。
東京は僕だけでやっています。
事務と不動産管理は名古屋でやっています。

家業の会社が創業101年目とおっしゃっていましたが、
若い頃から経営者を意識されていたのですか?

意識していました。
そのように育てられてきたんです。
僕は長男ですから、
いずれ後を継ぐことを刷り込まれてきたわけです(笑)
ただ、社会人になり、
「どこか違う生き方もあるんじゃないか」
と思ってもいました。

大学に入学したり、社会人になったタイミングで
家業ではなく別の道へ行くという意識はありましたか?

大学卒業後、アメリカの大学院に行ったんですね。
アメリカにいる間に
「世界は広いんだな。もっと自由でいろんな生き方があるんだ」
ということを知りました。
どちらかというと、
僕が自分の生き方に先入観を持っていて、
「いずれ、親父の後を継いで社長になるんだ」
と思って生きてきたんです。
今まで持っていた既成概念を横に置いて、
日本へ帰ってから外資系のIT会社に勤めました。
当時のIT業界は、ITバブルでいい時代でしたから、
ここでやっていきたい思いがありましたね。
入社した会社は大企業でしたが、
大企業なりの喜びや楽しみを知って、
「こっちのほうが自分に合っているんじゃないか」
と思っていましたね。
それが25歳から29歳です。

社長になる選択肢で悩んだ時期はありましたか?

悩みはなかったですね。
家業へ帰った時は、
家業自体が切羽詰まった状態で選択肢がなかったんですよ。
悩んでいる余裕なんてありませんでした。
僕が帰らなくては森川という家が潰れてしまうという状況でしたから。
当時は家業を長年やっていたことは意識していませんでした。
僕が肌で知っているのは祖父の代までですから。
それ以前の話は意識にないんですね。
去年、1909年から創業していることを知ったんですよ。
気付いたら100年じゃん!って(笑)
僕の中では祖父、親父、僕という意識で
100年なんて考えていませんでしたね。

子供の頃から社長になることを
意識付けされてきたわけですよね。
自分の境遇、立場を周りと比較したりはしませんでしたか?

社長が偉いという感覚はありませんでしたね。
社長は大変だと思っていました。
母方の祖父の会社が倒産して、
一時期、ボロアパートに住んでいたことがあり、
経営というのは大きなリスクがあるということを
子供の頃に目の当たりにしていました。

ご自身ではうまくバランスを取れていると思いますか?

うーん、まだまだでしょうかね。
僕は前に進む力よりも
重みで引っ張られるほうが多いと思います。
まだまだ精進しないと(笑)

今回のテーマである29歳の頃のお話をお聞かせください。

28歳か29歳の時だったかは忘れましたけど、
非常に楽しく仕事をさせていただいていました。
週の半分は終電を逃してタクシーで帰っていましたね。
その頃、親父の右腕だった人が調子を悪くして病院に行ったら、
末期のすい臓がんで余命3か月と診断されたんです。
親父から「今回だけはヤバいんだよな」と相談を受けたので、
まずは会社の決算書を見たんです。
決算書を見ていると、
どうも数字の並び方が違うんですね。
何だかおかしい。
よくよく見ていくと、
当時、素人の僕でもわかったんですね。
「これは債務超過だ…」
5億円の売上に対して負債は10億円もありましたから。
じゃあ、5億円の売上のうち、
1億円が利益になっているかというと、
その逆でマイナス5000~7000万円の赤字で、
負債を返済しようもない。
資産もほとんど劣化していて、
ゴルフ会員権とかもバブルの頃に、
購入した価値の金額で書いてあるので
実際に換金しても価値のないものばかり。
仮にすべて資産を売り払ったとしても5億円あるかどうか。
丸々5億円の負債が残るわけです。
正直、本当にヤバい状態でしたね。

負債が5億円…。
その状態から這い上がってきたんですね。

それは僕の力じゃないんです。
ご先祖様が…「ご先祖パワー」と呼んでおりますけど、
奇跡が起きたんです。
ちょっと紙に書きましょうか。
当時、うちの会社の自社ビルは、
名古屋の錦通と広小路通に挟まれた区画で、
ゴールデンゾーンと呼ばれ(これは私たちが勝手に呼んでいたのですが)
とある会社のビルに囲まれていたんですね。
うちの会社のビルの評価価値は、
錦通の評価ではなくてビルの前を通っている一方通行の
道路の路線価で評価されていたんです。
それは大した評価額じゃなかった
以前からその周りを取り囲んでいる会社さんからは、
「ビルを買いたい」
と言ってきてもらっていたんですね。
うちの自社ビルを手に入れて区画を整理すると
物件の過半が錦通の評価額に変わるんですよ。
ただせっかくいい場所にありますから、
最初は売るつもりはなかったんです。
当時は自社ビルを物流倉庫兼オフィスとして使っていましたが、
レンタルオフィスにする計画を立ててたんです。
10年前くらいの名古屋にはそれがあまりなかったので。
その計画を持ち、周りを囲んでいる会社さんに挨拶にいくと
翌日に番頭さんがすっ飛んできて、
「ちょっと、そのレンタルオフィスにする工事待ってください。
ビルを買わせてもらえないか」
と。
大した評価額じゃなかったのに、
なんと4億8000万円で売れたんです。
そのおかげで、5億円の負債がチャラになったわけです。
それが30歳から31歳になる頃の話ですね。

自社ビルの買収話が起きる前に
再建なんてムリだと思ったことはありましたか?

不思議なことに一度もムリだと思ったことはないです。
「必ず道はあるはずだ」
という根拠のない確信がありました。
こればっかりは根拠がないだけに説明はできませんね。
数字だけ見れば絶望的ですから。
当時は不良債権問題で日本中が荒れていた時代で
メインバンクにも金融庁から監査が入ったんですね。
個別に貸出案件をチェックされて、
僕らは一発でレッドカードです。
メインバンクは守ろうとしてくれましたが、
金融庁に指示されてRCC(整理回収機構)送りだったんです。
その直前に自社ビルの買収話がまとまり、
バランスシート上、問題がなくなってRCC送りを免れました。
RCCに送られたら強制的に倒産なんですが、
その一ヶ月前のことです。

危機一髪だったわけですね。

当時、婦人服の小売店が4店舗ほど手元に残っていました。
それを何とかするつもりで営業したんですけど、
うまくいきませんでしたね。
商売を何とかしようと思っていましたが、
うまくいかなかった場合のバックアップも一生懸命探していましたね。
そして、出てきた答えが不動産への転換。

何かきっかけがあったんですか?

自分たちで運営していたのは4店舗でしたけど、
6店舗くらい業務委託で他の人に貸していたんです。
自分たちよりも上手に運営している人たちに貸して、
営業してもらうテンプレートがあったわけです。
非常にいい流れもありまして、
4店舗のうち1店舗だけ大きな赤字を出していたんです。
試しにそのお店を業務委託したらどうなるか予備調査をしてみたら、
予想を超える金額がついたんですよ!
なぜ、そんなにいい値がついたかというと、
名古屋駅前に建築予定だった某大規模オフィスビル&商業施設のおかげです。
僕が家業に帰った頃から、
そのビルの計画が進行中で古いビルが壊されていて、
ちょうど、その地下街に物件を2店舗持っていたんです。
メインのお客さんのOLさんがいなくなり、
苦境に陥っていた面もあったんですが、
そのビルが完成していくうちに
地下街の価値もうなぎ登りになり、
結果的に満足のいく金額で貸すことができるようになりました。

ではコンサルティング業を始めたきっかけは?

実は再建が一区切りついた時に
緊張が解けてドッと疲れが出てしまって、
海外へ旅に出たんです。
沖縄から南にどんどん下って、
最後にニュージランドまで回りましたね。
2か月くらい過ごして元気になってくると、
客観的に外から日本を見るようになっていました。
そこで、今の日本には、つい昨日までの僕たちと同じように大変な思いをしている経営者がたくさんいるんだろうなあと思うようになっていました。
そして、日本へ帰った時にあるメルマガを見たんです。
以前、マーケティングコンサルタントの方と知り合って、
その人のメルマガを購読し始めたんです。そこに
「経営コンサルタント募集」
のお知らせがあって、応募したんです。
僕にはマーケティングが欠けていると思っていた。
業態転換をやりましたが、
それは財務的な面から見てのことです。
ある程度いろいろな経験をさせてもらいましたし、
数字を見る力は結構あるほうだと思ってはいます。
でも、商売を伸ばす力は圧倒的に足りない。
アパレル業を伸ばす形で再建をできなかったわけですから。
ある種のトラウマになっていたので克服したかったんですね。
そして、マーケティングコンサルティングをやらせてもらいましたが、
思っていたほど難しくなかったですね。
実は財務よりずっと簡単。
適性があったのかもしれません。
クライアントの業績を伸ばすことに関しては、
早い段階で実績を出せるようになって、
チーフコンサルタントの肩書をいただきました。
先生の下でやらせてもらえるようになり、
たくさんの案件を任せていただきました。
ただ、3年もやっているうちに
もっと経営者と近い距離で、
自分なりのやり方を試したいと思うようになっていました。
そこで、
「ちょっと力試しをしたいので、
卒業させていただけませんか?」
という話をしたら、
先生もしばらく考えて、了承していただいて、
独立をさせていただきました。

現時点ではどのような夢や目標をお持ちなんでしょうか?

「いい会社」を創って、「いい家庭」を作りたいです。

「いい会社」の定義とは?

社会に価値を提供することですね。
それから従業員がハッピーになることです。

ちなみに「いい家庭」は?

いい家庭というのは…
こっちのほうが難しいかもしれませんね(笑)
まぁ、子供が健やかに育ってくれて、
夫婦仲が良かったら一番ですかね。
どっちが難易度高いかというと、
家庭のほうが高いかもしれませんね。

脱線しちゃうのですが、
「いい奥さん」って、どういう条件なんでしょうか?

僕の奥さんはいい奥さんですよ。
やはり、家庭に対する価値観がしっかりしています。
例えば、子供に愛情を込めて育てるのが当たり前。
旦那さんの仕事をサポートするのが当たり前。
女性にもいろいろな価値観があると思いますが、
僕にとっての「いい奥さん」はそういう所ですね。
あとは常識人であること。

なるほど。
結婚っていいですか?

何事も両面がありますが、
プラスマイナスだと大プラスじゃないでしょうか。
もちろん、今まで感じる必要もなかった悩みも出てきますよ。
その分、感じることのなかった喜びも大きいです。
特に子供が産まれてから、
僕の価値観は完全に変わりました。

社長インタビューをしていると
多くの経営者の方が、
子供が産まれて価値観が変わった。とおっしゃいます。

男は子供が産まれた後でしか父親になることができません。
実感することもできないです。
女性はお腹の中に宿った瞬間から
どんどん母親になっていきますけどね。
実はお腹の中にいる時は、
大した子供に愛情が湧かなかったんです。
何となく違うな、という感じはありましたが。
やっぱり、産まれた後ですね、
本当の愛情が出てくるのは。
簡単に説明すると、
子供たちと円満な生活を送られるのであれば、
それ以上は金もいらず、名もいらずになりました。

家庭が中心になってくるんですね。

僕はそういうタイプです。
どれだけ名前が売れてお金持ちになったとしても、
家庭が不幸だったら僕は幸福感を感じることができません。

では、これから起業したい、
新しいことを始めようと思っている若者たちに対して、
「こんなことをしておいたほうがいい」
というアドバイスが何かありましたら教えてください。

29歳はまだまだ若いです。
29歳でできる失敗は何一つない失敗ではありません。
学びがあるだけです。
経験に優る以上の知恵はありません。
失敗しても恥ずかしくないし、
仮に失敗してもそれを取り返せる若いうちに
どんどん失敗をされたほうがいいかと。

失敗を恐れて動けない人も多いと思います。
どうやったら失敗をできるようになると思いますか?

失敗にも上手な失敗と下手くそな失敗があります。
がむしゃらに何でもやって
結果を出せないのは下手くそな失敗ですね。
上手な失敗というのは、
「絶対にこれで勝てる」
と思うまで考えて、挑戦してみることです。
たとえ結果が出なかったとしても学びにつながると思います。
将来の成功につながる大事なポイントが
見えてくるんじゃないでしょうか。

短絡的に闇雲に動くのとは違いますね。

闇雲に動いて失敗するのは、深さのない学びですね。

それでは、当時29歳の自分に向けたメッセージを色紙にお願いできますでしょうか。

本日はありがとうございました!